明治42年(1909年)6月29日、河東碧梧桐は春日山城趾に上った。 |
午後新潟から来た烏啼と、痩仏を案内者にして春日山の城趾を訪うた。この前高田におった時、是非春日山に上る筈であったが、ついに雨のため果さなかった。きょう上らねば、またその機を逸するので、雨中強て車を走(は)せたのである。 |
昭和16年(1941年)、水原秋桜子は春日山城址を訪れている。 |
春日山城址 そのかみのこれや大手か百合咲ける ひぐらしのきそへるあらり館のあと
『古鏡』 |
この道は、江戸時代に描かれた春日山城の古絵図に大手道と記載されていたことから、当時の人々もここを春日山城の正面玄関と考えていたことがわかる。ここから春日山城に入ると、最初に視野が開ける場所が番所である。番所からは正面に本丸が望め、城があった頃は入城する人々を威圧したと想像される。道は南三の丸や柿崎屋敷など春日山城の主要な屋敷を経て本丸に至る。 |
大手道の中程、本丸を初めて目前にする地点にあって「番所跡」と伝えられている。標柱のある小山は木戸が造られていた土塁の跡で、門があったと考えられる。 ここから見る春日山城は、晩秋からカタクリの咲く春先までが絶景。 |
上杉謙信の重臣柿崎景家の屋敷跡と伝えられる春日山城で最も大きな郭の一つ。また、城内の山地で唯一ハンノキが自生する場所で、植生から水分を多く含む土地であり、ここに池もしくは水堀があったことが考えられる。 池であったとすれば、春日山城で唯一庭園を合わせもった郭の景観が想像される。 屋敷へは、大手道から木橋をかけた南側の空堀を渡って入るように古絵図に描かれている。また郭の東側を通り、景勝屋敷へつづく古道も残っている。 |
時の関白近衛前嗣(さきつぐ)が通ったことから、御成街道と呼ばれている。 謙信は2度の上洛を通じて、前嗣と親交を暖めた。お互いに年も近く、酒が好きだったといわれている。謙信が、後奈良天皇・正親町(おおぎまち)天皇と拝謁できたのも前嗣の力添えによるものであった。 前嗣は、永禄3年(1560年)謙信を頼って越後府中(直江津)に下向し、3年間滞在した。当時、京都に次ぐ大都市といわれ、繁栄の極みにあった越後府中文化は、前嗣の来訪によりさらに、洗練されていった。 |
「御館(おたて)の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した景勝公の屋敷と伝えられている。景勝公は謙信公の姉仙洞院の子で、直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の1人にまでなった。 景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は、総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削出し、数段で1つの屋敷が形成されている。春日山神社から谷愛宕にかけての屋敷跡群が雛壇状に並んで造られているのとは対照的である。景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず定型化していないのは、春日山城の古い段階での普請を示しているといえる。 |
廃城後400年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古絵図にもここだけが(井の文字を丸で囲んだ記号)と、井戸があることを示しており、古くから注目されていたことがわかる。 どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いて、水が湧くとのことである。なお、数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などがみつかっている。 |
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所。 標高180メートルの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できる。 関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年(1597年)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わらない。 |
説明 頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地であった。この山上に本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、土塁濠を重ねて比隣に勢威を示した。頂上は蜂ヶ峰と称し、眺望に富み、附近の属城を充分に監視することが出来た。 本丸趾の後方、一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門丸及び御花畑があった。また西方には鐘撞堂や景勝屋敷趾等があって、南方の二の丸、三の丸方面には家臣の屋敷趾があった。 規模は極めて雄大である。 文部省 |
謙信公が出陣前に毘沙門堂に籠った事はよく知られているが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの護摩堂である。 護摩の修法(しゅほう)は、毘沙門天の信仰とともに謙信公が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っている。 |
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城(みじょう)と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成している。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている。 古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっている。 |
謙信公の養子「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」などを総称して「三の丸屋敷」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ今も道が残っている。 三郎景虎公は、小田原の北条氏康の七男であり上杉氏と北条氏の同盟締結の際に謙信公の養子となった武将。謙信公が自らの名を与えるなど破格の待遇を受けていたが、謙信公の死後跡目を争った「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所として考えられており、春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁は、この三の丸の防衛の役割を果たしていた。当時はこのような土塁が各郭に築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像される。 |
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中(直江津)を守る拠点であった。 その後、謙信公の父為景・謙信・景勝の3代にわたり普請に努め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。 春日山城の特徴は、標高180メートルの本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1,200メートルの総構え(通称監物堀)である。 関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭と言える。 |
上越市内を見下ろす謙信公の銅像は、昭和44年に滝川美一によって制作された。 |