2012年新 潟

秋葉公園〜謙信公像〜
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長岡市谷内の高台に秋葉公園がある。


秋葉神社


 天文20年(1551年)、常安寺の守護神として上杉謙信が楡原の蔵王堂より遷したと伝えられているそうだ。

謙信公像がある。


上杉謙信傳

 上杉謙信公は春日山城に生れ、天文12年14歳の時、下郡鎮定の使命を帯びて吾が栃尾城に入城し、活躍の第一歩をこの地に印し、後遂に戦国時代の代表的名将となりました。

 公は深く佛道に歸依し、7歳にして林泉寺に入り天室光育和尚の薫陶を受け、その後益翁宗謙等に禅を学び、大徳寺徹岬に参じて戒を受け、高野山に登り無量光院の清胤に詣で、佛門に入らんとせしも、家臣の懇請によって思ひ止まらざるを得なかったのであります。公はまた陣中にあっても神佛を信仰し、我身は神佛と共にあるを自任してゐました。筋目を守り、義に厚く、2度も上洛して大義名分を明らかにし、巣守神社に社領を寄進し、幼少時代の恩人門察和尚のために常安寺、秋葉大権現を建立。敵将に塩を贈る等の慈悲心も持っておりました。

 常に学問を愛し、漢詩・和歌・書道・茶道・琵琶等にも通じ、教養豊かな文化人であり、

霜満軍営秋気清   数行過雁月三更

越山併得能州景   遮莫家卿憶遠征

この一詩は七尾城攻囲の折に作ったものであります。

 又、意を民政に用い、新田を開發し、中ノ口川を通じて蒲原平野の湛水を排し、道作奉行を置いて道路、橋梁を開鑿し、青芋を京阪に送って領民の経済を豊かにしました。

 越後の誇る名将謙信公の魂は實に吾が栃尾の山河によって育まれたのでありませう。巍然たる栃尾城址を仰ぎ、公の居館なりし大野部落を俯瞰すれば公の遺徳が油然として偲ばれ、我々はここに生を享けたことに大きな誇りを感ぜずにはおられません。

那須正丘 記

秋葉神社の裏手に芭蕉の句碑があった。


此あたり目に見ゆる物ハミな涼し

出典は「十八楼ノ記」。『笈日記』に収録されている。

 貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。

天保14年(1843年)10月12日、芭蕉百五十年忌に夜梅庵連中建立。

芭蕉句碑

 俳聖松尾芭蕉の句で、丈草写「十八楼記」にあり、同じところ水楼にあそびて と前書があり「水楼の眺望」と題されています。

 この句碑は天保14年(1843年)夜梅庵連中の人達により建てられましたが、この地が市街地から一段高い台地上にあって、人々の憩いの場であるとともに、ここからの詠めが優れていることから建てられたものと思われます。

長岡市

謙信公像の右手に「柳涯句碑」があった。


柳涯句碑

(中心に)

   花ざかり山は日ごろもあさぼらけ

(右側に1段下げて)

   夕月やすすきひと穂の地の雲り

 この句碑は明治25年(1892年)布水軒社中の手によって、芭蕉二百回忌・柳涯三十五年祭を記念してここに建てられました。

 中心にある句が松尾芭蕉の句で、貞亨5年(1688年)の作、よし野にての前書があります。

長岡市

柳涯の句

迎火の影まほろしや水のうへ


芭蕉の句が中心にあるのなら、「芭蕉の句碑」であろう。

『芭蕉庵小文庫』に「山は日ごろの」とある。

貞亨5年(1688年)春、『笈の小文』の旅の折、吉野で詠まれた句。

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