2016年長 崎

浦上天主堂〜水原秋桜子〜
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長崎大学医学部から浦上天主堂へ。


浦上天主堂


登録記念物 浦上天主堂旧鐘楼

 1867年に始まった浦上四番崩れと呼ばれる大弾圧により全国に流刑にされた浦上のカトリック信者は、1873年に解放されたのち、聖堂の建設を計画します。

 1895年にフレノ神父の指導の下起工した浦上天主堂は、貧しいながらも農作物を売って得た資金や、外国人からの寄付などを受け、石材や煉瓦を買い、信者の労働奉仕で運搬・建築され、紀行から19年もの歳月を経た1914年に完成しました。当初の天主堂には鐘楼がなかったため、当時の主任司祭のヒューゼ神父の計画のもと1925年に双塔が完成しました。

 しかし、1945年8月9日原爆により天主堂は破壊され、北側の鐘楼は現在の位置まで崩れ落ちました。その後1959年に天主堂は再建され、この鐘楼は原爆により破壊された旧浦上天主堂の被害を、当時と同じ場所で物語る唯一の遺構となりました。

 大正8年(1919年)9月10日、斎藤茂吉は浦上天主堂で歌を詠んでいる。

      九月十日。天主堂。

浦上天主堂無原罪サンタマリアの殿あるひは単純に御堂とぞいふ。


 昭和7年(1932年)2月5日、種田山頭火は浦上の天主堂を参観している。

 二月五日 晴、少しばかり寒くなつた。

朝酒をひつかけて出かける、今日は二人で山へ登らうといふのである、ノンキな事だ、ゼイタクな事だ、十返花君は水筒二つを(一つは酒、一つは茶)、私は握飯の包を提げてゐる、甑岩へ、そして帰途は敦之、朝雄の両君をも誘ひ合うて金比羅山を越えて浦上の天主堂を参観した、気障な言葉でいへば、まつたく恵まれた一日だつた、ありがたし、ありがたし。

昨日の記、今日の記は後から書く、とりあへず、今日の句として、――

  ・寒い雲がいそぐ(下山)



1945年10月の浦上天主堂
林重男撮影

 昭和27年(1952年)5月23日、水原秋桜子は浦上天主堂を訪ねた。

   浦上天主堂 五句

麦秋の中なるが悲し聖廃墟

堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ

残る壁裂けて蒲公英の絮飛べる

天子像くだけて初夏の蝶群れをり

鐘楼落ち麦秋に鐘を残しける

『残鐘』

 昭和28年(1953年)1月、阿波野青畝は浦上天主堂を訪れている。

   浦上天主堂址 三句

聖廃墟はるかなる火の畦焼ける

残壇にちらばる天使春の空

ケロイド無く聖母美し冬薔薇に

『紅葉の賀』

 昭和30年(1955年)5月、富安風生は浦上天主堂を訪れている。

   浦上天主堂 二句

うまごやし柵して廃墟なまなまし

一使徒像残り夏雲高行くも

『古稀春風』

 昭和42年(1967年)7月、阿波野青畝は聖蹟巡礼で再建された浦上天主堂を訪れた。

三伏やひそと身を折りまげ祷る

『旅塵を払ふ』

 聖地巡礼と称してわが国の西辺にあるカトリックの史蹟めぐりが盛夏に敢行された。六十八歳の老躯いまだ衰えざる意地を以て私夫婦が参加したわけである。

 まず五島にはじまり、平戸、長崎、雲仙、天草と一週間の巡礼をつづけた。旅中朝のミサのほかに、教会訪問ごとに祈祷と礼拝をおこなった。先年は廃墟の浦上。そこに立派な新しい教会ができている。面目を一新している。巨大な聖堂内にみちびかれて跪坐すると、非常に小さい自己になってしまう。そんな自己の意識をもっている私は、一面もののかずにならない存在であるが、他面神を信ずる心は幸福であるように思えた。この旅行は日に焼けて元気に帰宅できて、孫たちに多くの土産話を与えることができた。


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