2015年長 崎

諏訪神社〜碑巡り〜
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長崎市上西山町に諏訪神社(HP)がある。


石段途中の左手に祓戸神社がある。

祓戸神社に向井去来の句碑があった。


尊さを京でかたるも諏訪の月

『渡鳥集』(夜巻)冒頭の「入長崎記」に収録。初出は『泊船集』

昭和61年(1986年)初夏、無月句会建立。

 向井去來は慶安4年(1651年)長崎に生まれ、宝永元年(1704年) 京都で歿した。

 彼は若き日修めた弓矢の道を捨てゝ俳諧の苑に進み、蕉門十哲の一人に数えられた。その篤実な人柄は松尾芭蕉や同門の深い信頼を受けて、芭風の代表的撰集『猿蓑』を野坡・凡兆と共撰し、また芭風俳論の粋『去来抄』をまとめた。

 去来は8歳の日離れた故郷を忘れがたく、再度長崎を訪れては数々の佳吟を残した。

尊さを京でかたるも諏訪の月   去來

 この句にこもる望郷の心情は、産土の神諏訪の御社の下長崎にゆかりのある我々も等しく抱くものである。ここに先人去來の遺風を慕う在京の無月句会の連衆は諏訪神社の境内にこの句碑建立を発起した。

文並びに書 福田清人

「福澤諭吉先生之像」があった。


慶應義塾塾長 鳥居泰彦識

  平成10年(1998年)1月、長崎三田会建立。

建立の碑

天は人の上に人を造らず

人の下に人を造らずと云えり

 
福澤諭吉『学問のすすめ』より

諏訪神社の石段


石段の両側は「長崎くんち」諏訪神社の奉納踊りさじき。

 元禄11年(1698年)7月17日、長崎を離れる前夜に各務支考は長崎の人々と諏訪神社を参詣。

明日はわかれむといふ。今宵人々につれたちて諏訪の神にまうつ。此みやしろは山の翠微におはして、石欄三段にして百歩はかり。宵闇の月もかけほのわたりて宮前の吟望いふはかりなし。

一は闇二は月かけの華表かな
   支考

山の端を替て月見ん諏訪の馬場
   卯七

山の端を門にうつすや諏訪の月
   素行

木曾ならは蕎麥切ころやすわの月
   雲鈴

たふとさを京てかたるもすわの月
   去來


鎮西大社諏訪神社


明和8年(1771年)5月18日、蝶夢は諏訪神社を訪れている。

 十八日。けふは唐人の諏訪の社へまふで、遊宴の事ありとて、枕山老人の誘引にて、その宮司の書院に通りて見るに、華人五十三人居ならぶ。


諏訪神社斉館「諏訪荘」の前に太田蜀山人の歌碑があった。


彦山の上から出る月はよかこげん月はえつとなかばい

平成2年(1990年)10月、建立。

 江戸時代の代表的な狂歌師であった太田蜀山人(直次郎南畝)は文化元年(1804年)9月長崎奉行所勘定役として着任、翌年10月まで勤務した。

 長崎でも幾多の歌を残しているが、殊にこの境内より見る彦山の月を賞でたこの歌は名高い。

 平成2年、諏訪荘を移築した記念に長崎の文人相寄り、ここにゆかりの地にこの碑を建立す。

発起人代表

 嘉永3年(1850年)9月7日、吉田松陰は長崎に遊学中、諏訪神社に参詣している。

諏訪社に詣づ、平戸御屋敷へ行き、名刺を投ず。中興鑑言を借觀す。

『西遊日記』

 明治43年(1910年)3月24日、河東碧梧桐は諏訪神社を訪れている。

 三月二十四日。晴。

 諏訪神社の楼門つづきの廻廊とも見える押開いた処に真赤な毛布が敷いてある。ドヤドヤと上ってその上に円陣を作ると、殆ど絶間なしに吸うておる鵜平の烟草の烟が、淡い青みを帯びて毛布の上に棚引く。


 大正9年(1920年)8月14日、斎藤茂吉は雲仙から長崎に帰り、19日、諏訪公園を逍遥する。

   長崎

      八月十四日。温泉嶽を發ちて長崎に歸りぬ。病いまだ癒えず。
      十六日抜齒、日毎に歯科醫にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温
      泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき

公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな


 昭和7年(1932年)2月6日、種田山頭火は諏訪公園を散歩している。

 二月六日 陰暦元旦、春が近いといふよりも春が来たやうなお天気である。

今日もたべるに心配はなくて、かへつて飲める喜びがある、無関心を通り越して呆心気分でぶらぶら歩きまはる、九時すぎから三時まへまで(十返花さんは出勤)。

諏訪公園(図書館でたまたま九州新聞を読んで望郷の念に駆られたり、鳩を見て羨ましがつたり、悲しんだり、水筒――正確にいへば酒筒だ――に舌鼓をうつたり……)。


昭和28年(1953年)、去来の二百五十年忌。

十月三十日 長崎に於ける去来二百五十年祭

 花すゝき去来先生いまそかり

 俳諧の月の奉行や今も尚


高濱虚子句碑


年を経て廣がるのみの夏木哉

平成4年(1992年)7月、建立。

高濱虚子先生染筆の色紙より。

 輝く日差しを受けて、強く逞しく、葉は濃緑に満ち、幹も大きく育ってゆく夏木の姿を詠まれております。向井去来(長崎出身)の二百五十年忌に当地の招請に応えて、2年後昭和30年に来アの機会をいただきました。

 俳句の伝統性を主張し、花鳥楓詠を確立された気概を絶えず抱き続けられた境地が伺われます。

 木立の繁る諏訪神社ご神域が最も相応しい場所と考へ、この意を長く顕彰するため、ここに句碑を建立します。

句碑建立発起人

 昭和30年(1955年)5月17日、虚子は三角港から島原へ向かう。18日に雲仙、19日には長崎を訪れている。

福田清人の句碑。


岬道おくんち詣での思ひ出も。

 福田清人は農と陶の里、長崎波佐見に生れたが、長崎の港を抱く岬、土井首磯道に少年の日を過した。

 岬をめぐる長崎一帯の風土と歴史は、深く心に刻まれて、文学の原郷となり「岬の少年達」、「春の目玉」、「天正少年使節」など国の内外に顕彰された数々の名作を生んだ。

 こうした作家活動と共に、日本大学、立教大学、実践女子大学、立教女子学院短大等の教壇に立ち、傍ら教職員文芸誌『文芸広場』の選者として、多くの優れた人材を育成した。

 日本文芸家協会や日本近代文学館理事、日本児童文学家協会会長としても活躍した。

 また母校大村高校を初め、県立長崎女子短大ほか、県下30余校の為に校歌を作詞した。

 俳句をたしなみ、主催する無月会が発起して、郷土の先人向井去来の句碑を諏訪神社境内に建てたゆかりもあって、同神社の好意により、その文学才偲ぶ碑を建て、半世紀を超える文業を讃えるものである。

社団法人日本児童文芸家協会理事長 西沢正太郎

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