2016年長 崎

本清寺〜芭蕉の句碑〜
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諫早市城見町の長崎街道沿いに本清寺という寺がある。


法華山本清寺由来

 当山は諫早最初唯一の法華根本道場である。

 諫早は昔、佐賀藩であった為、本宗(日蓮宗)の信徒は全く無く当時(嘉永年間)藩主諫早家御用染屋を家業とする樋口長之助が法華経の功徳により父の病が治るのを機に法華経の信仰に入るも当時は声を出して唱題する事も許されず他宗の迫害はひどいものであった。しかし、長之助の信仰はゆるがず、当地に一寺建立を願う。

 しかし、この時法華経の守護あり。諫早公並びに役人等、病になり、これを法罰と恐れ、長之助は4日後に免ぜられる。この時諫早公熊本の本妙寺に立願し清正公尊一躰一間四面の小堂に安置し長之助に授与れさる。

 慶応3年大本山本国寺日光上人長崎御巡錫の際、この事を聞いて大いに奇特なりと日夜ご信仰の清正公尊影、大曼荼羅ご本尊1幅を後年1寺建立の際、什宝となすべき旨朱記して授与される。

 愈々大誓願を発し是非一寺建立せんと業をはげみ財を貯え大村本経寺日壽上人に計る。上人大いに感激され明治7年諫早教会所を設置される。

 偶々真言宗天龍院の廃寺となるを聞き長之助参百四圓を投じて購い、清正公を安置して茲を以て教会所とする。

 しかし、他宗寺院相謀って1人の転宗も許さず、明治9年より12年に至る数十度の寺院建立願書も却下される。

 日壽上人の苦心また大いなる交通不便の時代、大村諫早間往復8里を1日2回せしこと屡なり。

 明治12年憲法により新教の自由を許さるや天にも昇る思いをなして信徒は転宗す。明けて明治13年4月ここに諫早最初唯一の法華経の寺法華山本清寺(本経寺の本と清正公の清の字をとって)は寺号公称を許され今日に至る。

日蓮宗本清寺

鐘楼の脇に芭蕉の句碑があった。


槐窓悠々俳之

夏来ても只一葉の一葉哉

前に大きな石塔があって、正面からは撮れなかった。

碑陰

嘉永三庚戌三月

古友棠雨の志を嗣て槐窓敬建之

出典は『笈日記』

貞享5年(1688年)、『笈の小文』の旅の帰路岐阜付近の山中で詠まれた句。

妙照寺の庭の奇岩絶壁に一つ葉の叢生するのを見て吟じたという。

嘉永3年(1850年)3月、川原悠々建立。

川原悠々は肥前大村藩士。名は元治。「槐窓」は木場に構えた庵名。

 天保13年(1842年)10月5日、廣瀬淡窓は大村藩主大村純鎮(すみやす)に招かれ、川原悠々を「今ハ俳諧を以て、九州ノ一名家タリ」と称えている。

 嘉永5年(1852年)の俳人番付に川原悠々は東方の5番手に位置している。

 嘉永7年(1854年)10月、槐窓悠々は大村の熊野神社に「芭蕉翁之冢」を建立したようである。

安政4年(1857年)11月27日、82歳で没。

この句碑は最近まで知られていなかった。

諫早市金谷町の国道207号沿いに「諫早観光ホテル道具屋」がある。

「諫早観光ホテル道具屋」の国道沿いに山頭火の句碑があった。


濁れる水のながれつゝ澄む

 死の1か月前、『山頭火句帳』の昭和15年(1940年)9月8日の項に、「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されているそうだ。

一草庵の前を流れる大川を詠んだ句である。

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