貞亨年間(1684〜88)、芭蕉41歳〜44歳頃までの句ということだが、年次不明。 |
寛延4年(1751年)、建立。 |
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慶長18年(1613年)、焼失。 |
郡内では、臼田町新海山社、佐久市貞祥寺の三重塔とともに代表的な建造物である。 |
貞亨3年(1686年)4月8日、大淀三千風は真楽寺を訪れている。 |
かくて上田海野小諸鹽野につく。明れは卯月八月八日會日なれは、みちづれあまたあり。さしも名高き淺間の嵩、天狗山、無間澤などたどりて、禅頂煙洞の内輪まで四里半。於(あゝ)雲のかけはし、煙のちまた、膽をひやし、人々逃まろぶ。漸々麓に下向して、大沼山眞樂寺に淺間記一軸を殘す。略。 |
天保11年(1840年)5月25日、田川鳳郎は真楽寺を訪れている。 |
廿五日。帰路浅間根に添ふて追分へ出。此筋ハ延喜の朝の古道とかや。浅間別当真楽寺に詣、院主出迎しばらく休息してかたらふ。 |
昭和42年(1967年)、中村草田男は真楽寺を訪れる。 |
追分町の奥、浅間の山腹なる真楽寺を訪ふ。同寺は慶長年間 の建立と伝承さる。三句。 他郷更に遠く野菊へ来りけり 旧盆や雲の端(は)にさざれ雲 浅間なぞへの棚村道や遠稲妻
『大虚鳥』 |