2007年長 野

千曲市戸倉郷土館〜宮本虎杖〜
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坂城から国道18号で戸倉温泉に向かう。

戸倉郷土館に宮本虎杖の資料が展示されているというので、行ってみた。

戸倉郷土館は佐良志奈神社の裏にあった。


虎杖庵


 宮本虎杖は、埴科郡下戸倉村中町の豪農宮本佐太郎常則、妻そねの息子として、寛保元年(1741年)に生まれる。本名を道孟(みちもと)、通称を清吉、また八郎兵衛とも称した。

 明和5年、虎杖28歳の時、来信した加舎白雄に師事。明和8年には師の白雄に従って1年有余北陸、京阪、紀伊、伊勢と巡り薫陶を受け、さらに江戸に出て「春秋庵」で学んだ。天明4年(1784年)秋には、判者(宗匠)の許しを受け「虎杖庵」と称している。

「虎杖庵記」加舎白雄筆


信中戸倉の駅に菴あり。虎杖とよぶはさせるよりどころあるにしあらねど、往てはかへる一千里、杖を握てかならず鉤爪のいきほひある事を。かついふ古慊坊がわかゝりし時なりけり、月の姨捨山に道しるべせしの幸、こと艸の名をとふにまかせしちぎり浅からずも、道に主一無適の心を起して北越行李のあとを慕ひ、洛の七条の僑居につかへて菜つみ水くみしつゝ、神風や伊勢の一葉菴に筆をとつては年をかさね、ともに故園を辞して四とせあまり、渠は我をちから、我は渠をちからに、帳つらぬ夏の夜、衾なき雪の夜も、ふたり旅子ぞたのもしきとうち吟じ、三嘆しては、なを三熊野や浦のはまゆふかたしきつゝ、須磨の藻しほ火いと寒かりしも、いまはむかし、せうそこの音信たえずしも、晨明山の桜さきぬ、千曲河のアユ(※「魚」+「條」)さびたりなど聞へけるもとしどしにて、ことし卯月のはじめやうやうと杖ひきならして、たゞに昔をぞかたる。あるじやゝ老たり、我白髪鏡にてらさば三千丈の愁、魂きゆるなるべし。ひと日籬外に杖を一双してユウ(※「火」+「習」)燿を詠じ、酒くみものす。一艸を得る虎杖菴とよぶのはじめなる事を、東都春秋菴のあるじ白雄いふ


 明和8年(1771年)1月1日、白雄は姨捨山上で初日を迎える。4月、白雄は虎杖を伴い関川の里を越えて北陸行脚に出発。

信中虎杖菴に春をむかひ、雪のきゆるを待て皇都に杖ひくべき趣を、人々にさゝやきはべりて。

初がすみきその嶽々たのもしき


やよひ半なりけり、虎杖菴に滞留せしころ。

薄履(げた)やものゝついでの朝ざくら

   その夜雪いたく降けるを

白雪やさかりの桜夢にせし


 天明6年(1786年)、常世田長翠は宮本虎杖を頼って戸倉にやって来た。

   乕杖庵

深山木や春まつ雪の下かつら

『あなうれし』(碓嶺編)

 天明8年(1788年)夏、長翠は春秋庵に帰る。

 文化2年(1805年)8月、川村碩布は虎杖庵を訪れた。

虎杖庵につきぬひたすら明日の月をのみたのむ

   松古しいく待宵の庵やそも

『穂屋祭紀行』

碩布の自撰句集『布鬼圃』に「穂家露」として収録されている。

 文化9年(1812年)夏、虎杖は鴫立庵八世庵主倉田葛三を呼び寄せ、虎杖庵二世を継がせた。

虎杖の妻楚明、後妻鳳秋も俳人。

寒菊を大せつ過(ぎ)て折(ら)れけり

息子八郎も「舟山」と号した俳人。

むら雨や雁の行方ハ夜明かね

 文政元年(1818年)、葛三が鴫立庵で亡くなると、舟山は虎杖庵三世を名のる。

孫清吉郎は真篶(ますず)と号した俳人であった。

真篶は虎杖庵三世を嗣ぐ。

文政6年(1823年)8月13日、虎杖は83歳で没した。

文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。

虎杖庵を訪れ、虎杖の墓に参る。

 坂木の宿くねり過て漸雨紅か軒を見出しぬ、十六夜塚を拝し姨捨山を栞に虎杖庵に着、先梨翁の墓に香をひねりて

   螢火も田に呼水も手向哉

『善光寺詣』

 宮本虎杖の資料は、虎杖菴六世にあたる宮本能武氏の妻さとさんが戸倉町(現千曲市)に寄贈されたもので、戸倉郷土館にはさとさんの茶道具も展示されている。

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