2004年長 野

湯田中温泉〜一茶の散歩道〜
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 朝、湯田中温泉「よろづや」から一茶・井泉水記念俳句資料館「湯薫亭」に行くことにしたが、まだ時間があるので湯田中温泉の「一茶の散歩道」を歩いてみる。

「よろづや」の隣の共同浴場「湯田中大湯」の前に一茶の句碑がある。


雪ちるやわき捨てある湯のけぶり

脇に句碑の説明が書いてある。

梅翁寺の側の木の札にも一茶の句が書いてあった。


きりぎりす声をからすな翌(あす)も秋

出典は『発句鈔追加』。何時の句か分からない。

梅翁寺の前には一茶の句碑がある。


子ども等が雪喰ひながら湯治哉

脇に句碑の説明が書いてある。

裏山を登っていくと、一茶の句が書いた石柱があった。


大仏の鼻から出たる乙鳥(つばめ)哉   一茶

文政5年7月

 出典は『文政句帖』。類句に「大仏の鼻から出たりけさの霧『七番日記』(文化11年)、「大仏の鼻から出たり煤払」『七番日記』(文政元年)があるそうだ。「煤払」は冬の季語。江戸時代には12月13日が恒例であった。



蝉鳴くや天にひつつく筑摩川   一茶

 出典は『句稿消息』。『七番日記』に文化10年(1813年)の句として「蝉鳴や空にひつゝく最上川」があるそうだ。

裏山を歩いていくと、一茶堂があった。


一茶堂に説明が書いてある。

一茶ゆかりの湯田中温泉

 松尾芭蕉・与謝蕪村と並んで江戸の三大俳人と言われる小林一茶(1763〜1827)は、15才にして江戸にたち、関西・四国・九州をはじめの各地を行脚し、全国にその名を知られ、文化9年(1812年)50才で野尻湖のある故郷の信濃町柏原に帰りました。

 その翌年には、当地旅館主人湯本希杖その子其秋との俳諧を通じての交際が始まり、65才で亡くなるまで温泉の湧く湯田中へ足しげく訪れ、希杖親子は温かく迎えておりました。その様な関係で湯田中には一茶晩年の日記類をはじめ一茶研究に欠くことのできない数多くの貴重な遺墨が保存され、その一部を一茶・荻原井泉水記念俳句資料館「湯薫亭」に展示してあります。

 この一茶堂は、昭和31年(一茶没後130年)小林一茶顕彰のため建立されたものであります。

 内部には寺瀬黙山作の一茶乾漆像を安置してありましたが、現在は温泉街の梅翁寺に移してあります。

 温泉街に湯田中の情景を詠んだ句碑が建立されております。

湯田中温泉観光協会

一茶堂の左に一茶像。


 昭和56年(1981年)12月15日、金子兜太は湯田中湯本旅館から一茶堂、そして梅翁寺へ。

 湯田中湯本旅館。食後、当主の六代目五郎次さんに連れられて、一茶堂へそして寺瀬黙山製作の一茶像(乾漆)ある梅翁寺へ。黙山氏はいまなお九十歳近く、中野におられる由、疎開できて住みついた由。

『金子兜太戦後俳句日記』

右には一茶の句碑がある。


夕立の裸湯うめて通りけり   一茶

 文政5年(1822年)の句、出典は『文政句帖』。句碑は昭和58年(1983年)建立。

一茶堂の近くに句碑らしい物があったが、全く読めない。


いつまでものぼるももとの柳かな   恵線

明治26年(1893年)、建立

 志賀高原・湯田中渋温泉郷・北志賀高原山ノ内町観光連盟に問い合わせて分かったことである。

また、一茶の句が書いた石柱があった。


湯上りや裸足でもどる雪の上   一茶

文政6年

一茶堂から温泉街に下りていくと、また一茶の句が書いてあった。

寝返りをするぞそこのけきりぎりす

文化13年(1816年)7月、一茶54才の句である。

痩せ蛙負けるな一茶是れにあり

文化13年(1816年)3月の句。

この句の碑は小布施町の岩松院と東京都足立区の炎天寺にある。

一茶・井泉水記念俳句資料館「湯薫亭」へ。

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