2015年宮 崎

延岡城跡〜若山牧水の歌碑〜

延岡市本小路に城山公園がある。


北大手門


市指定史跡 延岡城跡 別名 県(あがた)城・亀井城

 延岡城跡は県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8年(1601〜03年)にかけて築かれました。元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。城は、天守台、本丸、二の丸、三の丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓などが整備されました。なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22メートル・総延長約70メートルの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。

 慶長18年(1613年)、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655年)には城の大改修が行われ、3階櫓、2階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館蔵)が奉納されました。しかし、永純の時の天和2年(1682年・天和3年説もあり)、火災のため3階櫓などは焼失し、以後3階櫓は再建されませんでした。

 元禄4年(1691年)、永純は無城地の越後国糸魚川(新潟県糸魚川市)に転封となり、さらに越前国丸岡(福井県坂井市)に移封されました。その後、日向国初の譜代大名として、三浦明敬(あきひろ)が下野国壬生(栃木県壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。明敬は正徳2年(1712年)、3河国刈谷(愛知県刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国吉田(愛知県豊橋市)から8万石で入封。延享4年(1747年)には、陸奥国磐城平(福島県いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで八代続きました。

千人殺しの石垣


千人殺し

 ここの石垣は千人殺しと呼ばれ、敵が攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられていいます。

三の丸跡に向かうと左手の広場に若山牧水の歌碑があった。



なつかしき
  城山の鐘
    鳴りいでぬ
をさなかりし日
  聞きしごとくに

 若山牧水は、明治18年8月24日、宮崎県東郷町坪谷に生まれました。村の尋常小学校を終えると、10里ほど離れた延岡市の高等小学校に入り、新設された県立延岡中学校を卒業して、早稲田大学英文科に進みました。

 延岡での8年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、将来天下に名を成す歌人として素養を培われました。

 この歌は、昭和2年7月24日、台雲寺で詠んだもので、昭和10年春、全国3番目の牧水歌碑として建てられました。

 毎年、春分の日に歌碑まつりが行われます。

延岡観光協会

三の丸跡


天守台跡の鐘楼


「城山の鐘」である。

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