私の旅日記2011年

唐桑半島〜高村光太郎文学碑〜
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冬の唐桑半島に行ってみた。

JR大船渡線鹿折唐桑駅から宮城交通バス「御崎行き」で御崎下車。


終点まで乗っていたのは私一人だけだった。

御崎神社がある。


祭神は日本武尊・素盞鳴命・大海津見神。

高村光太郎文学碑があった。


黒潮は親潮をうつ親潮はさ霧をたてゝ船にせまれり

平成5年3月14日、建立。

 三陸沖の海洋に暖流と寒流は錯綜し、ために豊かな魚族を呼び、しばしば複雑な気象を招く。

 彫刻家・詩人高村光太郎は昭和6年8月三陸海岸を旅し、気仙沼を出港、唐桑半島を回って北上する船中での感動をこの歌に託した。黒潮と親潮の激突する夜の海で、海霧の湧き立つただなかに置かれた光太郎は、帰郷後10月、混迷する時代生きる自らの決意をうたって詩「霧の中の決意」を創ったが、その題名に添えて書き記した短歌である。

 つねに人間のありようを問い、厳しく誠実に時代に向かう光太郎の人と芸術を敬慕し、これらの詩歌を生んだ奇縁を記念して、唐桑半島の人々が力をあつめてこの文学碑を建てた。

昭和6年9月18日、満州事変勃発。

智恵子に精神分裂の兆候が現われだした。

文学碑の後ろの海


御崎園地の遊歩道を歩く。


陸前御崎岬灯台


「鯨塚」があった。


 昔、嵐にあった漁船を鯨が御崎神社沖まで誘導し、無事救ったという伝説があり、この鯨の霊を祀ったものである。神社では、毎年正月7日の朝、神酒、イワシと塩とを塚に供えて鯨を供養している。又、鯨は神社の使いであるとの信仰があり、氏子は鯨を捕ること、その肉を食べることはしない。

「鯨塚」の右に芭蕉の句碑があった。


此あたり目に見ゆるものみな涼し

芭蕉の句が刻まれている部分は陰になってしまった。

出典は『風俗文選』

『笈日記』には「目に見ゆるものは」とある。

 貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。

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