私の旅日記2011年

津城跡〜藤堂高虎〜
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三重県津市丸之内に津城跡がある。


お城公園


三重県指定史跡 津城跡

 津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580年)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600年)関が原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町ともに戦火を受けた。

 慶長13年(1608年)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓(すみやぐら)を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式(りんかくしき)または、囲郭式(いかくしき)といわれる形の城である。

 城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、街の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一に備えた。

隅櫓


昭和33年(1958年)、復元。

(崇源院1573〜1626)

 戦国武将浅井長政と織田信長の妹お市の間に生まれた三姉妹の末子。天正元年(1573年)小谷城落城後、母や姉2人(茶々・初)とともに織田信包に預けられたとする記述(『織田軍記』巻13)があり、天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が亡くなるまでの間、伊勢上野城で過ごした可能性がある。

藤堂高虎公


 弘治2年(1556年)、近江国犬上郡藤堂村(のち在士村、現滋賀県甲良町)に生まれた。

 15才の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4年(1576年)21才で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に3百石で召し抱えられ、天正13年(1585年)年には紀州粉川(和歌山県粉河町)ではじめて1万石の大名となった。

 その後豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)7万石となり、2度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)20万石の大名となった。

 そして慶長13年(1608年)いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の役の後に加増され32万3千余石の大大名となった。また高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・丹波亀山城・大坂城・二条城と数多く手がけている。このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の暖まる暇もないものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。

 この像は、社団法人津青年会議所創立35周年事業として発案され、藤堂高虎公銅像建立市民会議を組織し、多くの市民の方々の浄財によって津市制施行100周年の年に建立されました。

平成10年10月吉日

津中央ライオンズクラブ 寄贈

藤堂高虎の句碑


しらはたや花さく山の一備へ

 嘉永6年(1853年)5月6日、吉田松陰は江戸に行く途中、伊賀上野から津に入る。

六日  曇。上野を發す。山田・平松を經て、長野嶺に登る。嶺上より初めて勢州の海を見る。是れ伊賀・伊勢の界なり。長野を經て、三軒茶屋に至り、左折して路を取り片田を經て、津に入り、堅町に宿す。行程十二里。


 昭和11年(1936年)3月24日、種田山頭火は津の城下を訪れた。

阿保から津まで電車。

津はいかにも城下らしいおちついた都会であつた、梅川屋といふのに泊る、一宿二飯で三十四銭!

二角さんを訪ねて御馳走になる。


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