私の旅日記
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2011年
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龍福寺
〜浜の地蔵〜
桑名市地蔵に龍福寺という寺がある。
龍宮山龍福寺
高野山真言宗
の寺である。
龍福寺は浜の地蔵として知られている。
浜の地蔵には句碑4基、塚1基、庚申塔1基、計6基の碑があり、桑名市指定文化財になっている。
白魚句碑
明ほのやしら魚白き事一寸
出典は
『野ざらし紀行』
。
貞享元年(1684年)10月、桑名
本統寺
三世の大谷琢恵を訪れ、翌朝浜の地蔵に遊んで詠まれた句。
明治36年(1903年)9月、桑名間遠社建立。
昭和34年(1959年)、伊勢湾台風によって旧碑は流失。
昭和39年(1964年)2月、建設大臣河野一郎再建。
初案句碑
雪薄し白魚しろき事一寸
芭蕉翁
白うをに身を驚な若翁
木因
出典は『桜下文集』(句商人)。
「
明ほのや
」の句の初案である。
「
海上に遊ぶ日は、手づから蛤をひろふてしら魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す。
」と前書きがある。
明ぼのや白魚白きこと一寸
この句、はじめ「雪薄し」、「無念の事也」といへり。
『三冊子』
(土芳著)
昭和39年(1964年)2月、河野一郎建立。
白魚塚
伊勢湾台風で流失。桑名時雨蛤商組合再建。
碑裏に「東武一桑東 魚光建之」と刻まれていたそうだ。
麦林句碑
浜の地蔵とて絶景の地有。いつれの春にやはせを翁もしら魚の一句を此堂の柱に残されたりとかや。われも此秋此佳境にたたずみて、
蛤の宮殿見たり霧の海
『麦林句集』に所収の句。
麦林は伊勢山田の俳人
中川乙由
。
大正14年(1925年)、兎月建立。
伊勢湾台風で流没後、発見された。
兎月は美濃派の俳人汀庵千葉兎月。桑名間遠社を主宰。
大正12年(1923年)11月、
芭蕉の句碑
を建立。
大正13年(1924年)12月16日、
荻原井泉水
は地蔵堂で白魚塚を見ている。
さて、地蔵堂は瓦葺の屋根を前さがりに垂れているので、中はうすぐらく、「大聖地蔵王」という額の文字だけが古びて読まれる。又、昔からある白魚塚というのは、新しい大きな句碑が建てられたため、その下に見すぼらしく、一寸目につかぬようになってしまったが、――
白 魚 塚 山田仁右衛門
在市
東武 建之
魚光
とある。ここに芭蕉の句を記念した一番古いものであろう。並んで、麦林の「はまぐり塚」という句碑もある。新しい大きい碑は表に――「あけぼのやしら魚白き事一寸 芭蕉桃青」とあり、裏に「地蔵堂の什寶は雪薄しとあり笈日記に後に曙やと聞えしとありはた此地に御再案の遺墨も傳ればかくなむ筆を染るものは 千秋庵敬書 明治三十六癸卯年九月吉辰」――この寺に真蹟があるのかと、私はこの碑陰の言葉を読みながら独りうなずいて、堤の下にある寺に刺を通じた。寺は龍宮山龍福寺という真言宗の寺である。
『随筆芭蕉』
(桑名と多度山)
千鳥句碑
闇の夜や巣をまとはして鳴くちとり
出典は
『猿蓑』
。
元禄4年(1691年)の句。
寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に文桃子貴楊建立。辟兒房筆。
伊勢湾台風で流没後、発見。
山口誓子
は浜の地蔵に芭蕉の句碑を訪ねている。
それから、浜の地蔵へ行った。名四国道が出来、防潮堤が出来たりして、あの辺も変った。防潮堤の出来たのは、昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風のためだ。そのとき本尊の石地蔵と白魚句碑が流されて行方知れずになっている。
その句碑は、春日神社に奉納されていた芭蕉の短冊を引伸ばして、明治三十六年に建てたものだ。私も前に来て見たことがある
。 それが終に出て来なかったので、再建の話が持ち上り、名四国道の完成したとき、建設大臣の河野一郎が力を貸して再建した。河野一郎は国造りとともに句碑造りもしたのだ。昭和三十九年のことである。
新しい句碑も春日神社の短冊を引伸ばしたのだ。その倍率十倍。石も大きな自然石だ。
明ぼのやしら魚白き事一寸
(中略)
その句碑の右に、芭蕉、木因の連句碑がある。
芭蕉の句は
雪薄し白魚しろき事一寸
この句は初案である。「雪薄し」より「明ぼのや」の方がずっとよい。
この連句の碑は、「明ぼのや」の碑と時を同じうして創建された。これもまた建設大臣河野一郎の力に拠った。河野一郎の名はこの碑の裏にもとどめられている。
しかしながら、推敲途中の句が捨てられずに、石に刻まれて、いつまでも残るということは、作者本人には堪えがたいことだ。
芭蕉の句碑はもう一つある。白魚句碑の下、左にあるのがそれだ。御影石の自然石。
闇の夜や巣をまだはして鳴ちとり
白いから読みにくい。
寛政五年の建立。この千鳥句碑は、伊勢湾台風に流されたが、発見されたのだ。
『句碑をたずねて』
(伊勢・伊賀路)
庚申塔もあった。
浜地蔵堂の常燈明
揖斐川の堤防は、明治初期まではもっと川の中に位置していましたが、明治の大改修によって現在の場所に変わりました。「浜の地蔵」と土地の人々から親しまれている地蔵堂は、江戸時代は堤の上に建てられていました。ここは竜燈の松と呼ばれた名木に囲まれ、遠く知多半島や二見浦、そして富士山を望む風光明媚な場所で、人々の憩いの場となっていました。俳聖松尾芭蕉もここを訪れ、「明けぼのや白魚しろき事一寸」の名句を詠んでいます。
天明8年(1788年)4月、
田上菊舎
は浜の地蔵尊に詣でている。
桑府留杖のひと日、浜の地蔵尊へもふでけるが、爰に入江の風色に興じ興じ、しばらくそこの階端に佇めば、祖翁の高吟眼のあたりにうかみて、恐れおゝくもその言葉によれるの即時
汐湛え藻の花しろきことほのか
百茶房
奉納地蔵尊開帳
幾世渡す綱手や涼し御手の糸
菊舎
『ふたゝび杖 四』
寛政3年(1791年)、
佐々木松後
は伊勢に向かう途上、浜の地蔵に句を奉納している。
濱の地蔵寺奉納
桑名に杖をとゝめし頃濱の地蔵寺に詣て
しかこの尊像は海底より出現し給へるよ
し住僧の物語あれはあたりのけしきも思
ひ寄せて
龍宮も見て來た顔や浮ふ鴨
『杖のはじめ』
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