慶安4年(1651年)、長崎に生まれる。字、元淵。号を義焉子と名乗り、落柿舎・去来とも称した。
万治元年(1658年)、8歳の時、父元升と共に一家揃って京都に移住、中長者町付近に住み、父兄の家業(医師)を助ける。別に聖護院村に宅を構え、嵯峨に草庵を結び落柿舎と名付けた。30歳頃、其角を通じて俳諧を芭蕉に師事、許六・支考・丈草・嵐雪・凡兆らと交流。蕉門十哲の一人、俳諧奉行と呼ばれた。
妻河南との間に登美・多美の二女をもうけ、宝永元年(1704年)9月10日、没す。54歳。翌11日申の刻、眞如堂本堂の前にて葬儀が執り行われ、向井家の墓地に埋葬された。
『昔ぎく』に眞如堂なる向井去来先生の墓に詣でて
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萩すすきむかしの嵯峨もかくやありし
| 蝶夢
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露深き道や嵯峨野に眞如堂
| 鶏賀
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また『菊のうはさ』に一とせ眞如堂の本廟にもうで
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ゑこうして柿買過ぎよ塚の秋
| 古声
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と吟じているので、没後130年頃まで去来の墓は現認できたが、その後墓地整理によって失われたようで、今、供養塔が建っている。
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山門の右に鈴鹿野風呂の句碑があった。

宝永元年九月の露の滋かりけむ
昭和38年(1963年)9月8日、建立。
山門の左手に小林月史の句碑があった。

忌につどふ去来の寺の栗の飯
昭和58年(1983年)1月、建立。
墓は儒家の風で、形は「馬鬣封(ばりょうほう)」というが、今は失われている。「鬣」は「たてがみ」のこと。
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去來處士か八十年忌の秋、うら盆の日眞如堂の墓
に詣て
萩薄むかしの嵯峨もかくや有し
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