高知城の搦手門(西ノロ門)から西に向かって広場があったことに由来する町名。御馬廻などの武士が多く住んでいたが、元禄11年(1698年)の大火後、東の内堀沿いは杉林となり、明治時代以降、裁判所や営林署の用地となった。また、北には幕末に文武館(のち致道館)が建てられ、校舎は明治時代に入り県庁や陶冶学校(師範学校の前身)として利用された。 |
参政吉田東洋が16代藩主豊範の命により 文久2年(1862年)創設 始め文武館と称したが 慶応元年(1865年)致道館と改称した 幕末非常事態での藩士の教育機関として 文武両道を厳しく鍛錬すると共に 西洋学術も受容した |