2018年神奈川

小田原城〜小田原城址公園〜
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小田原駅東口の「北條早雲公」の像から小田原城に向かう。

青橋から見た小田原城天守閣>


北入口から小田原城址公園へ。

小田原城天守閣


日本100名城No.23である。

史跡小田原城跡 本丸跡

 小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守閣、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされて、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門(くろがねもん)と呼ばれていました。

 本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632年)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。

 その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703年)の地震により倒壊・焼失してからは、再建されることはありませんでした。

 現在、本丸の東南には「巨松(おおまつ)」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。元禄年間(1688〜1704)小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」には、「七本松」と呼ばれた松が描かれていますが、巨松は、「七本松」の最後の一本で、樹齢は400年を越えています。

常磐木門


小田原城 常磐木門

 本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固につくられていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。

 元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870年)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。

 現在の常陸木門は、市政30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成した。

 常磐木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常磐木門と名付けられたといわれている。

小田原城と小田原合戦攻防図

 天正18年(1590年)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲されました。

●時代を画した小田原合戦

 織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587年)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原城開城を決意します。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。

●戦闘の経過天正18年(1590年)3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛利輝元(本人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻しました。

 これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本隊の猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別動隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。

●小田原合戦の意

味  北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」でした。

 北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。

 また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行いました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。

南曲輪南堀


藤棚


藤はまだ咲いていなかった。

御感(ぎょかん)の藤 樹名ノダフジ(マメ科)

 この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森本氏の手に渡り、明治16年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。

 大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから、「御感の藤」と呼ばれるようになりました。

 大正11年3月、小田原保勝会 の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。

 樹齢は約200年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、5月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。

小田原市教育委員会

平成の大改修を終え新・小田原城ここに再び。

銅門(あかがねもん)


 銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。

 銅門の形式は、石垣による枡形、内仕切門(うちしきりもん)、櫓門、を組み合わせた枡形門とよばれる形式で、本来の工法で復原されています。

住吉橋


史跡小田原城跡 馬屋曲輪

 馬屋曲輪はL字型を呈する独立した曲輪である。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、土塁の上へ登る雁木(階段)は二重櫓両側(写真1)と南側土塁(写真2)の位置にあった。

 この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。曲輪の規模は、東西47間(約92.59m)、南北37間(約72.89m)であった。

 曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と「大腰掛」の2棟の建物を中心に番所、切石を配した井戸などがあり、南東隅には二重櫓があった(図1)。「馬屋」と「大腰掛」は「板堀」により繋がっており、(円礫を用いた石列の位置)、発掘調査では、堀を境に表と裏では敷かれている石が異なっている様子が確認されている(写真3)。また、「住吉橋」の東に「住吉松」と呼ばれた名物のマツがあったが、幕末に失われた。

 なお、曲輪内にあるマツの内、四つ目垣のある老マツは古写真にも写る古木である(写真4)。

現在、二の丸観光案内所がある。

 以前は北村透谷の文学碑があったが、現在は小田原文学館に移転されているとのこと。

天守閣と常磐木門が見える。


小田原城

 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築城された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。

 北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632年)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新されます。稲葉氏3代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。

 明治3年(1870年)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。

 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。

小田原白梅ライオンズクラブ

馬出門


 馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文(1672年)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存在しました。

 石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の2つの門から成ります。

ここが正面入口らしい。

隅櫓


学門


隅櫓と馬出門


二の丸広場へ。

史跡小田原城跡 二の丸跡

 江戸時代、多くのお城では藩主の住まいは本丸にありました。しかし、小田原城の本丸には徳川将軍家のための御殿があったため、小田原藩主の住まいは二の丸にありました。

 二の丸の建物は「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割がありました。

 二の丸御屋形は、寛永10年(1632年)小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、唐門や能舞台を備えた御殿造りの壮麗な建物となりました。しかし、元禄16年(1703年)の地震により倒壊・炎上したことが、発掘調査でも確認されています。その後、規模を縮小して再建されますが、幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、本丸御殿に代わる将軍家宿所としても用いられました。

 明治に入り廃城となった後、同34年(1901年)に御用邸が建て替えられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災でほぼ全壊しました。そして、その後、昭和4年(1929年)に小田原第二尋常高等小学校(後の城内小学校)が建設されました。平成4年(1992年)に小学校統合に伴い城外へ移転しましたが、残った旧講堂は歴史見聞館として使われています。

花菖蒲園から天守閣を見上げる。


昔の小田原城とすっかり変わっていた。

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