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北村透谷をはじめとする小田原市出身の文学者や北原白秋、谷崎潤一郎など小田原市にゆかりの深い文学者の資料が展示されている。 |
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小田原城下唐人町に生まれる。本名門太郎。北村家は元小田原藩士の家系であった。透谷は幼少期を小田原で過ごし、明治14年家族と共に東京へ移転。
小学校卒業後の透谷は自由民権運動にも興味を示すが、18年頃から文学の道に進むようになる。
20年石坂ミナと熱烈な恋愛に陥り、その苦しみのなかでキリスト教に入信、翌年結婚。22年代表作の1つ『楚囚之詩』を自費出版。
26年島崎藤村らと「文学界」を創刊、「内部生命論」などの評論で、日本近代文学の最初の潮流としての浪漫主義運動の先駆となる。小田原にはその後23年に早川、26年に前川と、それぞれしばらくの間仮寓した。代表作には評論『厭世詩家と女性』、評伝『エマルソン』、詩劇『蓬莱曲』などがある。27年自宅の庭で自殺、墓所は高長寺(城山)にある。」 |
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大正7年(1918年)3月、北原白秋は御幸の浜の養生館に仮寓、4月十字4丁目の御花畑に転居、10月伝肇寺(でんじょうじ)の一室を借りた。翌年境内に「木菟の家」を、9年隣接して白秋山荘を建て、ここで著述活動を続けた。 |
| 大正9年(1920年)3月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が白秋の新居を訪れる。 |
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| 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で山荘は被害を受ける。 |
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| 大正13年(1924年)10月10日、若山牧水は小田原に白秋を訪れる。 |
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| 大正14(1925年)7月19日、鉄幹・晶子夫妻が再び小田原の白秋宅を訪れる。 |
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| 大正15年(1926年)1月10日、牧水は再び小田原に白秋を訪れる。 |
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昭和14年(1939年)2月、鎌倉から大窪村板橋24、通称下河原(現南町4丁目)に転居、19年に福井県に疎開するまでの5年半を小田原で過ごした。 |

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喫茶フォーユーは三好達治の住んだところにあります。 昭和第一と言われる詩人はこの地を好み、ここにあった和風で小さな二階建の家で数々の名作を生みました。 この道を通る人たちは、どうか足をとめてありし日の詩境を偲んで頂きたいと思います。
小田原ペンクラブ |
