2009年神奈川

熊野神社〜白雄と蓼太の句碑〜
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海道に架(わた)す所の橋の号も又鶴見橋と呼べり。(長さ二十七間。)水源は多摩郡小野路・都築郡長津田・橘樹郡馬絹の辺より発して、恩田川・早淵川・矢上川・鳥山川・佐江戸川の川々落合ひ、鶴見村に至る。故に鶴見川の号あり。『梅松論』に、元弘三年五月十四日鎌倉方討手として武蔵守貞将(さだまさ)大将にて向ふ。下総よりは千葉介貞胤(さだたね)、義貞と同心の義有つて攻め上る間、武蔵の鶴見の辺に於て戦ひ、打負けて引き退くとあり。

『江戸名所図会』(鶴見川)

 嘉永4年(1851年)3月29日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、鶴見橋を渡る。

河崎驛の前に川あり、橋を鶴見と曰ふ。蓋し村名に依れるならん。


横浜市鶴見区市場東中町に熊野神社がある。


熊野神社


 御祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、伊邪奈岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪奈美尊(いざなみのみこと)

熊野神社の左手に加舎白雄大島蓼太の句碑があった。



朝夕や鶴の餌まきか橋の霜
   白雄

五月雨や鶴脛ひたすはし柱
   蓼太

東海道鶴見橋を詠んだ句だそうだ。

 江戸時代には鶴見橋の辺りに鶴が棲みつき、餌づけがおこなわれていたという。

昭和21年(1946年)5月、建立。

鶴見出身の俳人飯田九一の揮毫だそうだ。

白雄の句は『しら雄句集』に収録されている。

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