街 道中山道


中山道和田宿

国道142号は中山道。


長野県小県郡長和町和田は江戸から28番目の宿場町。

国史跡中山道和田宿本陣


 中山道和田宿本陣は、文久3年(1861年)3月の大火で焼失したが、同年11月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。

 居室棟・冠木門は旧位置に復元したが、御入門は、既に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建した。

 また、座敷棟については同じく敷地等の関係から復元することはできなかった。

和田村教育委員会

中山道和田宿本陣御入門


 延享2年(1745年)4月6日、横井也有は尾張公のお供をして江戸から中山道を下る。10日、和田に泊まる。

 十日

 此夜和田にとまる。

 あるじが子とて惣太郎といへる十二三なる童の、茶など運びてかしこげなるに、見えわたりたる山をとへ、かれハ大田沢、これ(檳)榔山とをしふ。名にしおふくろかミ山にもよらずして、いかで此名をよびけんとゆかし。


 天明2年(1782年)4月13日、五味可都里は和田の駅の増屋に泊まっている。

つかれたる折々は茶店に酒をくみ、あるは見もしらぬ道心などをはなしなぐさみつゝ、酉の下刻ばかりに和田の駅に着。増やにとまる。


 享和2年(1802年)4月2日、太田南畝は和田宿に着く。

かりやす村を過て和田の駅にいれり。駅舎のなかば左の方の寺の門に、風越嶺と書るもゆかしく、立いりてみる。堂の額に、信定禅寺とありて広沢細井知慎の筆なり。土人にとふに、こゝは小県郡風越の里なり、風越の嶺はこれよりはるかに跡のかたなりといふ。


 文久元年(1861年)11月6日、皇女和宮は和田宿に宿泊している。

 明治27年(1894年)6月、高浜虚子は馬を借りられず、歩いて和田峠を越えた。

雉子、鴬、梟などの声々聞ゆる道の辺に鼾高く、六十余の翁草に寝ねたるは、浮世の外の夢や見るらんとなつかし。長久保新町の駅はづれ、とある松の木の下にかたばかりの藁屋しつらひて、釜ひたしたる裏の小川の藻の花咲ける水の面に、五月雨はそぼそぼと降り出でぬ。五月雨の和田峠馬で越せと、子規子の贐(はなむけ)を思ひ出で、里人に馬はと尋ぬれば、諏訪に繭運ぶ鈴の音世話しく、風流の旅人乗せて行くべき痩馬だにあらずと言ふ。実に実に我は浮世のすて物なりけりと、朽木一枝を力に峠を上りける。

   五月雨の和田の古道馬もなし

   大木の五月雨の谷に横たはる

   旧道の石はみ出しぬ五月雨

   五月雨や岩石劉る鑿の音


 昭和10年(1935年)8月4日、与謝野晶子は上諏訪がら和田峠を越えて新鹿沢温泉へ。

わが越ゆる古街道の和田峠常(とこ)あたらしき白樺しげる

『白桜集』(白樺抄)

 昭和21年(1946年)10月24日、高浜虚子星野立子と和田峠を越え小諸へ帰る。

十月二十四日。和田峠を越え小諸へ帰る。

 日を背に龍田姫立つ山紅葉


     和田峠三句

  紅葉よし連に見せ度く指さしぬ

  東餅屋西餅屋とて紅葉狩

  頂は紅葉なくなり霧込めぬ

 父の句に

  日を受けて龍田姫ある山紅葉   虚子

といふのがあつて感心した。


 昭和39年(1964年)5月18日、星野立子は和田峠を越えて小諸へ。

 五月十八日 八時五十分出発 西餅屋 それからトンネル 東餅
屋で力餅

和田峠今我等ゆく老鶯に


 平成17年(2005年)10月1日、和田村は小県郡長門町と合併し、小県郡長和町となった。

 平成18年(2006年)3月6日、丸子町は上田市、真田町、武石村と合併し、上田丸子となった。

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