田中千梅

『自娯文艸』(巻四)

『東武紀行』


正徳5年(1715年)11月、千梅は東海道を江戸に下る。30歳の時である。

今年正徳未の冬例なから亦東都に旅だつ予か東行ハ常にして旅泊の哀などいふも人のうけがふまじきワざなから頃しも霜降月の空冬野の気色見過しかたき旅中の芻艸を書付るはかり也けにや其家に生れて戦場に立ん武士(モノゝフ)ハ生て再歸らん事を思はす一陣に進(スゝン)で名を後代に輝しなん事をのミおもふへし古郷に残れる家族もおくれを取其名を腐(クタシ)ても帰り来れとハ願ふへからす品こそかハれど世に彷徨(タゝズマヒ)ぬるさかひ予がけふの首途もかハる事なしさすがにひかるゝ眷恋の情を打払ひ死生命ありと足縦横に蹈て我國の界(サカイ)を出る

坂ノ下にやどる。折りを感ずる時雨も常ならで、心寂し。馬上の眠り覚せとて、菓子・くだもの賽布の底に入れ給はるを探り出しぬ。悲母の恩、今宵更に深し。

坂ノ下

桑名

の日ハ桑名泊り翌あさふね也駿風時の間に熱田に着船をあがり鳴海潟たどり行に冬気色定めなく霙まじりに降出して行先も見えす馬をたのみに三四里を漸に喘(アエギ)付きぬ

   旅百年骨を様(タメシ)のみそれかな

池鯉鮒

けふハ雨止たれど空いまた晴やらす。彼(カノ)きつゝなれにしと聞ゝし八橋の旧蹟も其時候ならねは余所に見なして矢矯に至る。橋際に馬の眠れる春の旅行をおもひ出ぬ。此夜ハ白菅の宿今俗白須賀ト称スむかし此驛塩見坂の麓波打際にありて折節の旅寐す彼須磨明石の夜泊に俤かよひて風情なりしをちかき年の冬洪波(ツナミ)といふものに家居皆取れ人馬夥しく損じてより山ノ上に引あげ今の宿驛に降りけり総て三峡海変にハ思ひうけぬ変ありて長閑ならぬ事多し旅舎求んにも心すへき事也かし明れは濱名橋本の里弓手ハ遠江灘馬手は高師山栄華暫時ノ事打眺め行ば波澄テ鴈影深といふ荒居に至る

   冬雁の胸を居たる海の青

「栄華暫時の事 波澄で雁影深し」は許渾の「七里灘」による。

  七 里 灘
     許 渾

天 晩 日 沈 沈
   孤 舟 繋 柳 陰

江 村 平 見 寺
   山 郭 遠 聞 砧

樹 蜜 猿 声 響
   波 澄 雁 影 深

栄 華 暫 時 事
   誰 職 子 陵 心

白須賀

濱松に着家第梅宵日ごろに待もうけて斜ならす悦ひ翌日ひと日とゞめられて鴨江の観音寺五社諏方の寺社に詣す造営美麗を究金碧荘厳光を琢けり

   注連はゆる庭ハ蜜柑に冬しらす

浜松

人遣(ヤリ)の旅行ならねど爰にもとゝまるべきにあらねは又夜を込立出漸けふに至り旅心定りぬ天龍を渡り浪田村を過小家を覗きてたばこの火乞寄に思ひかけず古里にいとはしたなくて有ければ心地まどひにけりといへりし風流を見る

夕陽ちかく成とて風烈しく酒醒郷関遠羸馬厭東西と打吟行袋井縄手明ぬ程て日坂に寓

日坂

時爽旦佐世の中山を越ゆ

大井川に臨水の浅深を何文川と答へたるハ嶋田金谷の賊也と呵(シカリ)ける風雅人もありけり予ハ冬川の気色を憐む五月雨ごろの血気にハ引かへて哀也例の雍樹(カタグマ)も旅人に阿(ヲモネル)予もこれに助乗られて

   幾人の胯を潜れはとしの暮

駿河路に入宇津の山を過道の邊少引入たるところ柴屋寺といふ禅院あり天柱山吐月峯七曜の池を湛ふ彼宗長八十三年の老を養ひ荏世を避て心をすませし菴の跡也とかや父名嶋田の義助也

駿府にやどる繁花海道に冠タリ人家地を論ひて萬乏き事なく一夜の旅寐も心ゆるよう也

府中

次の夜原の宿に泊ル此所むかしハ浮島の驛と称し今ハ別浮島の原といふ宿なるべ前ノ夜の泊にハ引かへていといぶせき旅店のさま軒かたむき扉(トボソ)破て寒氣肌に入(シミ)ぬるにぞ例の沫(アハ)だつもの茶碗にて引かけ逢籍就劉問土風と打つぶやきてひつかぶりぬ

   火用心(ゴヨウジ)も鴨も水鳥も氷る聲

「逢籍就劉問土風」 … 籍に逢ひ劉に就いて土風を問ふ



拂曉に出沼津三嶋を過て箱根路にかゝる此ごろ催(モヨ)ひし雪気の空こらへず降出して目口もあかす山上に向ふ次第に降つもりて風山嶽を鳴らし谷峯くろミて大吹雪ともいふあれに成ぬと行連たる旅人馬駕の者も騒ぎ迷ふ吹立る雪ハ灰のごとく領(エリ)裾より入て五躰氷手足凍て口箝(ツグミ)ものも云れす山中の里まて一里餘の所千苦万労してたとりつき茶店(サテン)に這入矢庭に囲炉裏に蹈込(フンゴミ)漸人心地つきて後先より居たる旅人又亭主へも挨拶してげり誠に旅せん者能(ヨク)心得ぬべき事也かし返す返す三嶋に止宿して山のぼりすまじき日也けり雪吹(フブキ)(ダヲレ)など云事ハ北土邊鄙の物語とのミ覚ぬるを現(マノアタリ)常行かふ街道にて斯(カク)命びろ成めにハあひぬる也

茶店

其夜ハ粥啜其のまゝ爐邊に轉臥(マロビフシ)て夜明見れハ七八尺積て家々軒を埋(ウヅメ)り生れてより終(ツヰ)に斯(カゝル)深雪を見侍らねバ興さめ奇異の心地せる程にけり

萬里渺茫と真白なる重山の気色いとすさまじく雪の面白き風情ハ少もなく只心凄斗也案のごとく山頂に至り境杭の邊に倒れ死ぬる旅人あり人集来たるものゝ色あひ年の程など書付守護へ訴ふるとてもて騒居たるもこれを見聞侍るに二たひ神魂(タマシイ)きえておそろしくきのふの危かりしをおもひて皆息をぬくミぬ

   朝比奈も雪の地獄の沙汰はせす

下り坂に趣く畑川端村湯本邊ハさのミも降ず静なる氣色也爰に至てきのふけふの寒苦を忘れ又茶店の囲爐裏にねまりて労を慰す

   薫(イブ)されてむせふも嬉し冬山家

大磯

川崎

今夜ハ大磯に虎がむかしを聞寐入りして翌川崎の驛にやどり次の日江府に着地気の繁華に活かへりて十餘日の艱労を事々く皆打忘れぬ

   大名も耳ハつふさす鰒(※「魚」+「屯」)の聲

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