街 道中山道


中山道戸田渡船場跡

「歴史のみち 中山道のご案内」から中山道戸田渡船場跡へ。




川口の渡

(往古(むかし)は、こかはぐちといへり。)。『義経記』に、九郎御曹子奥州より鎌倉に至り給ふといへる条下に、「室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋にはせ附きて、兵衛佐殿は』と問ひたまへば、おとゝひ、こゝを立たせ給ひて候と申す。武蔵の国府(こふ)の六所町につきて、佐殿はと仰せければ、『おとゝひ通らせたまひて候、相模の平塚にとこそ申しけると云々。

按ずるに、渡場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標(みちしるべ)あり。これ往古(むかし)の奥州街道なり。これより板橋にかゝり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。


中山道戸田渡船場跡


戸田の渡し

 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602年)のことです。宿駅は67、越える川は大小10以上を数え、荒川は江戸を出るところにありました。 この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。

 この渡しは、資料によると天正年中(1573〜91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842年)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742年)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。

 また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772年)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832年)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。

 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875年)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

戸田市教育委員会

渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」


下戸田一丁目交差点に下戸田ミニパークがある。


歴史のみち中山道

 この公園の脇にある小道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。中山道は日本橋を起点として、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで135里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて69宿ありました。

 戸田市内を南北に貫く旧中山道は、戸田橋の下流100メートル程のところにあった「戸田渡船場」から始まります。

 埼玉県内の旧中山道は、この渡船場から始まりますが、残念ながら市内の道筋の大部分は失われてしまいました。しかし、市内にもまだ一部にそのおもかげが残されています。

 その内の一ヵ所が、現在の国道17号にかかる戸田橋下流の堤防付近に建つ「中山道戸田渡船場跡」の記念碑付近から、北に向かって約200メートルほど残る道筋といわれています。しかし、菖蒲川を越えた先からの道筋は、現在まったく失われてしまいました。旧中山道は川岸に残る道筋からしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、現在の国道17号線に沿っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。

 そして再び旧中山道は国道から離れ、この説明板の建つ公園の脇道約80メートルとつながります。ここは市内に残るもう一ヵ所の中山道跡で、川岸から大きく西に曲がる部分となっていました。道筋は、この脇道から再び現在の国道に重なり、蕨市に残る旧中山道へとつながっていきます。

戸田市教育委員会

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