柳島家は近江の国で武田信玄の家来として松代に入封し、川中島の戦いののち、めまぐるしく代わる松代城主のときは物見役を務めていた。柳島家三代目柳島太郎左衛門政雄が、慶長15年、松代城主松平忠輝の補佐役大久保長安に命ぜられ、北国街道丹波島宿開設と本陣を務めた。当時、200石の知行を受け、間口・奥行60間の敷地を与えられた。
敷地には明治天皇巡幸のを記念して建立された門前の明治天皇御小休の石碑と明治神宮宮司有馬良橘揮毫の「明治天皇御駐輦の跡」石碑が旧本陣の旧跡をしのばせる。
|
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は中山道から善光寺街道を行き、善光寺へ。
|
○即時に一軸かきちらし。揚松梯彌生坂。福島。宮越。鳥居峠本山。松本仇坂矢坂。青柳猿峠丹波島。川中島に出。むかし信玄謙信鼻々したまふ戰塲をかたり。善光寺日野屋なにがしが亭につく。
|
寛政8年(1796年)8月16日、生方雨什は丹波島の渡しを「田舟」で渡る。
|
未の下り丹波嶋にかゝれバみかさ増り犀川二瀬に分れて渡しをとゞむ。ひそかにとへば瀬がしらに田舟ありと聞て入ける。日影に向ひ川添を行バ小舟見へたり。ひたすらに頼ミて「如渡得船」の経文を思ひいでゝ狂歌、
かの岸ハ追ての事よ丹波嶋渡りに船を得たりかしこし
|
文化2年(1805年)、川村碩布は丹波島で句を詠んでいる。
|
丹波島にて
秋水に取まかれたる旅寐かな
|
文化9年(1812年)11月23日、小林一茶は柏原に帰る時、丹波島宿に泊まっている。
|
廿三 晴 丹波島
『七番日記』(文化9年11月)
|
文政7年(1824年)、川村碩布は丹波島を渡り再び善光寺に参詣している。
|
丹波島渡りなし、川に添てのほる。二里はかりにして里あり
船頭も田植してゐる小市哉
|
丹波島橋を渡る。
街 道〜北国街道に戻る
