街 道中山道


箕田追分〜箕田源氏ゆかりの地

JR高崎線北鴻巣駅の北側に国道17号がある。


旧中山道は北鴻巣駅の南側にある。

中山道


箕田源氏ゆかりの地

 平安時代も9世紀後半頃になると地方の政治が乱れ始め、治安が悪化してきました。

 西暦919年、前の武蔵権介の任にあった源仕(任)は、官物を奪って官舎を焼き払い国府(国ごとに置かれた役所)を襲う事件を起こしました。源仕は昇(嵯峨天皇の孫)の子で、任期終了後も帰京せずに箕田に土着して豪族となり、その子充(宛)は箕田源氏の祖と言われています。著名な説話集『今昔物語集』には、箕田に居を構えていた源充と村岡(熊谷市)に居を構えていた平良文とが、合戦におよんだことが述べられています。源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の子にあたります。

 このほかにも、仕が勧請したと伝えられる八幡社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ伝承が数多く残されています。

 やがて、江戸時代になると五街道のひとつである中山道が、現在の鴻巣市域をほぼ南北に通り、中山道は東海道と共に江戸と京都・大坂とを結ぶ重要な幹線路であったから、整備も行き届いていました。中山道を往来する主な通行は、参勤交代のために隊列を組んだ大名行列や公用の武士、荷物を運ぶ人足や馬、寺社参詣の旅人などがありました。

 朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ1里(約4Km)ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは北へ向かって三ツ木・川面を経て忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。

 鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁40間(約16Km)の長い距離があり、途中の箕田・吹上・久下村の3ヶ所には立場と称される休憩所がありました。 立場とは立場茶屋ともいい宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲み団子を食べるなど、休憩するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人の休憩はもちろん、近村から寺社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです。

氷川八幡神社の図


 明治元年に合祀された氷川八幡神社を描いたもので、境内には渡辺社や箕田源氏の事跡を刻んだ箕田碑なども見えます。

街道中山道に戻る