街 道


水戸街道旧松戸宿の本陣

松戸市松戸の県道5号松戸野田線は旧水戸街道。


 そのつとめて、そこを立ちて、しもつさの国と、武蔵との境にてあるふとゐ河といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす。そのつとめて、そこを立ちて、しもつさの国と、武蔵との境にてあるふとゐ河といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす。


松戸宿 坂川の歴史


古くからここには水路があり、街道をよこぎっていた。

橋は水戸橋と呼ばれていたとつたえられている。

のちに、かわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。

松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で、街道の東側は田畑が広がっていた。

米が豊富な宿場では餅菓子や煎餅などを売る店も多かったと言われている。

旧松戸宿の本陣


 本陣とは、江戸時代の宿場に設備された宿泊・休息施設で、街道を通行する幕府役人、大名、公家、旗本などが利用した。門、玄関、書院を設けことが本陣の特権で、一般の旅籠には許されていない。

 水戸道中松戸宿の本陣は、江戸前期は吉岡隼人家、江戸中期以降は伊藤惣蔵家が代々勤め、水戸徳川家をはじめ、水戸道中を参勤交代で往来した常陸国土浦藩・笠間藩、陸奥国磐城平藩・相馬藩など、10数家の大名が宿泊や休息で利用した。明治維新後に宿駅制度が廃止され、本陣も廃止となった。平成16年(2004)解体された旧本陣の建物は、慶応3年(1867年)2月7日、本陣の出火で焼失、その後に再建された建物と推定される。

松戸市教育委員会

常陸街道にして駅舎あり。『更級日記』に、鏡の瀬松里の津にとまりてとあるは、この地の事をいふならん歟。(『義経記』に、治承四年九月一日、武藏と下総の境なる松戸の庄市河といふ所に着き給ふとあり。むかしは松戸の庄の名にてありしならん歟。)

按ずるに、さの一字を略して末津土(まつど)といふならん。このたぐひ地名にその例多し。既に、下総埴生郡を土民中略して、波不(はふ)と唱ふるたぐひこれなり。

『江戸名所図会』(松戸の津)

江戸川


 嘉永4年(1851年)12月14日、吉田松陰は新宿を経て松戸に至る。人目に付く松戸宿を避け、本郷村山中の本福寺に投宿した。

綾瀬川の橋を過(わた)り、新宿を經て松戸驛に至る。新宿驛の前には中川あり、松戸驛の前には松戸川あり、皆舟もて之を濟(わた)す。其の橋を架けざるは、舟の上下するもの帆を張りて過ぐるに便なればなり。松戸川の兩岸に番所あり、驛前に柱を立つ、書して曰く「御代官竹垣三右衛門支配所」と。此より下總の葛飾郡なり。時に日巳に落つ。此の驛に宿さんと欲して而も追捕の或は及ばんことを恐れ、本郷村に至り山には入ること二丁許り、本福寺に投ず。


 明治22年(1889年)4月3日、正岡子規は友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて常磐会寄宿舎から徒歩で水戸に向かう。千住から松戸の手前まで人力車に乗った。

折しも路ばたの車夫聲をかけ

 車夫「旦那どうです 松戸まで歸りですがお安くやります

といふに二人顔を見合せしが

 野暮「オイ いくらでいく

といふとサアそれから談判が始まる、すると高いとか安いとかいふ内に車夫がまけるとくる、さらば乘らずばなるまいと折角端折りし裾をおろし再びもとの紳士となりすまし、さきの言葉もどこへやら 中川橋を渡り松戸のこなたにて車はガラガラギリギリドンととまる。車を下り江戸川を渡れば松戸驛なり それより一里餘にして小金驛に至る


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