街 道中山道


神流川の渡し

旧中山道は上里町神保原町で国道17号と交差する。


中山道

 中山道は江戸と京都を結ぶ街道で、江戸時代以降五街道の1つとして整備が進められました。

 金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から12里余、文政期(1818年から)の家数は162軒、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直道ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。

 この道は三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応2年(1653年)頃です。

 勅使河原町(現上里町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている大光寺が見えます。

上里町教育委員会


旧中山道は上里町勅使河原で国道17号と合流する。


手前に小さな祠があった。


祠の左に小さな「一里塚跡」の碑があった。


昭和49年、上里町教育委員会建立。

江戸から13番目の一里塚であろう。

支蘇路ノ駅本庄宿神流川渡場


上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)が見える。

板橋のたもとに見透燈籠がある。

現在の見透燈籠


レプリカである。

享和2年(1802年)4月5日、太田南畝は神流川を渡り、武蔵の国へ。

芝原を左右にしつゝゆきて神奈川をわたる。河原ひろければ仮橋二つばかりわたる。これ上野国と武蔵との堺なりときくもうれしく、一年の役つゝがなくして、わがうぶすな国にかへりぬる事をよろこぶ。



神流川に架かる鉄橋


神流川を渡ると、群馬県。

「神流川古戦場跡」の碑がある。

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