熊坂長範は美濃国赤坂で鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸に討たれたという。 |
赤坂の宿はむかし熊坂の長範が、源九郎義經にうたれし處也。 |
近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ131里の道程に69次の宿場があり、美濃赤坂宿は57番目に当たる。 大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。 町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。 東西に連なる道筋には、本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べて繁盛していた。 昭和59年3月
史跡赤坂宿環境整委員会 大垣市赤坂商工会 大 垣 市 |
貞亨5年(1688年)6月7日、芭蕉は赤坂宿に泊まっているようである。 |
祖翁の日記 自筆にて三行ばかり 六月六日大津を立、ゑち川に泊、七日赤坂に一宿、八日岐阜に到る。秋芳軒宜白を主とすと云々。
『芭蕉翁略伝』(湖中著) |
芭蕉は木巴亭に泊まり、風呂行燈に「葛の葉の表見せけり今朝の霜」と落書きしたと伝えられているそうだ。 『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未とし」として「葛の葉のおもてなりけり今朝の霜」を収録する。 |
元禄4年(1691年)10月9日、森川許六は彦根藩中屋敷を出て彦根藩に帰る。17日、日中に赤坂宿に着き、夜半に立っている。 |
赤坂に日たかくつきぬ。ふる里の山どもにちかづきぬれば、見しりたる人にあふ心地ぞする。 樽井、赤坂あふしか、野上などいふ所は、いにしへ遊君のすみけるといへど、いまは名もなき所よりは、あさましく成行けり |
なき遊君の事とはん お(を)し鳥よ垂井赤坂君も見ず |
享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は赤坂宿に入る。 |
赤坂の駅に入れば、戸田家采女正の領分大垣より足軽二人出してさきをおはしむ。左に谷汲観音道あり。これより左右ともに田のみにして、山は雨雲へだてゝみえず。 |