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赤坂宿本陣跡〜「和宮之碑」

大垣市赤坂町に赤坂宿本陣跡がある。


赤坂宿は江戸から数えて57番目の宿場町。

中山道赤坂宿 本 陣 跡

 当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。

間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数は、およそ239坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。

 寛永以後、馬渕太郎左ヱ門に次いで平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫らく谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が2代に及んで明治維新となり廃絶した。

 文久元年10月25日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

   昭和60年8月

大垣市赤坂商工会観光部会

赤坂宿本陣跡に「和宮之碑」があった。


碑 文  和宮は弘化3年仁孝天皇の皇女として誕生された。万延元年幕府は公武合体により朝幕の融和を図ろうと皇女和宮の降嫁を請願した。孝明天皇は憂慮され、殊に和宮は、有栖川宮熾仁に親王との婚約があり、近く婚儀が実現されることになっていたので、その奏請を却下されたが、時局の困難が相次ぐので、止むなく許可されることになった。

 かくて翌文久元年10月20日京都出発、道を中山道にとり25日、ここ赤坂本陣に宿泊され、11月15日江戸に到着、十四代将軍家茂の夫人となられた。時に家茂は和宮と同年の16才であった。

   惜しまじなと民との為ならは

      身は武蔵野の露と消ゆとも

 和宮は、江戸城大奥の生活に耐え、よく夫君家茂に仕えられたが、長州征伐の陣中で、夫君は不帰の客となった。その時和宮は21才、悲涙に咽ばせられながら詠まれた歌に

   空蝉の唐織ごろもなにかせむ

      綾も錦も君あってこそ

 明けて慶応3年の大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸城攻撃と相つぐ動乱の中で婚家のため世のため民のため心魂を砕かれた生きざまは、まさに女性の鑑である。

 その遺徳を偲び、降嫁の折り宿泊されたこの地に碑を建立し、永くその生涯を語り継ぐものである。

日比野仙三 識

   平成元年10月25日

皇女和宮史跡保存会

少し離れて「脇本陣跡」があった。


中山道赤坂宿 脇 本 陣 跡

 江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家1ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。

 当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っている。

   昭和60年8月

大垣市赤坂商工会観光部会

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