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住みなれし里も今さら名残にて、立ちぞわづらふ 美濃の大牧―――という辞世を残して切腹した平田靱負は、木曽川治水工事の総奉行として世紀の大工事を指揮しました。 宝永元年(1704年)平之町に生れた平田靱負は、初め宗武(むねたけ)、後に正輔(まさすけ)、通称も平蔵(へいぞう)から兵十郎、掃部(かもん)、靱負と改め、31歳で父正房の跡を継ぎ、しばらく江戸薩摩藩邸に勤めた後、伊作や大口の地頭、大目付を経て、最後は家老の職にありました。 宝暦3年(1753年)島津家第24代重年は、幕府から木曽、長良、揖斐3河川の川普請手伝役を命じられ、1,000人の大部隊を現地に差しむけたのです。幕府役人の圧迫と妨害、工事中の洪水、流行病の発生、人手や資金の不足等々想像を絶する難工事が待っていました。苦難の末、見事工事を完成させた平田総奉行は、多大の犠牲への償いと予算超過の責任を取り、宝暦5年(1755年)美濃国大牧の本小屋で自刃しました。享年51歳、遺骨は京都伏見の大黒寺に葬られています。 |

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宝暦3年12月徳川幕府は薩藩に木曽長良揖斐3川の治水工事を命じた 当時薩藩は財政困難を極めていたが幕府の命には背きがたく翌4年2月家老平田靱負が総奉行となり士卒千余名を率いてこの大工事を開始した。しかしかかる大規模な治水工事には経験が浅く日に日につのる幕府の不当な圧迫とたたかい又資材の入手難に加えて累次の洪水のため工事半ばにして堤防が流されるなどまことに惨憺たる艱難辛苦を重ねたが藩のためよく耐え忍び専心努力を続けた結果1年後にこの難工事の完成を見たのである しかしながら工事途上不幸にして病にたおれる者又自決する者など80数名を数え更に莫大な藩債を残したため完成後平田靱負は全責任を負い従容として自らの命を絶ったのである ここにこの工事完成200年を迎えたので同志あいより昭和29年5月25日に平田靱負以下の200年祭を執行し且つここ平田靱負の誕生地に銅像を建設して義士名を刻みその義烈の精神と高徳を広く世に伝えんとするものである |

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住みなれし里も 今更なごりにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧 |
