井上通女は、万治3年(1660年)6月11日、丸亀藩士井上本固の長女として城下西郭に生まれた。天資聡明、幼より父に学を受け、16・7歳すでに「処女賦」「深閨記」を書いて女性の理想像を追求した。時の藩主京極高豊の母養性院は是を江戸邸に召す。「東海紀行」はその海道下りの名文であり、江戸奉公の日々は「江戸日記」に詳しい。元禄2年(1689年)養性院逝くや、直ちに懐かしい父母の許に帰り、同藩の三田宗寿に嫁した。帰郷の名作「帰家日記」は、和歌・漢詩を交えた一代の名作である。元禄7年4月夫宗寿没後は、独力よく家庭を治め、晩年は、学問と風流の日々を送り生涯の苦学を「和歌往事集」に纒めた。元文3年(1738年)6月23日往く。歳79。
近石泰秋記 |
うき雲を千里ニ はらふかせなくハ 今宵の月をいかて みましや |
なが月十三夜ひるつかた、雨風あらかりしが、よに入て、月いとさやか也、 うき雲を千里にはらふ風なくは今宵の月をいかてみましや
「江戸日記」より |