2023年香 川

大平正芳胸像〜香川大学経済学部〜
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中央公園から香川大学へ。

藩校 講道館

 高松藩の藩校は、二代藩主松平頼常が元禄15年(1702年)に講堂#中野天満宮の南に建てたことに始まります。十河順安・根本久武を教授とし講義をさせ、三代頼豊のはじめまで続きました。その後、菊池武雅や雨森三哲による講義などがありましたが、一時、力士舎 となってしまいました。四代瀬恒(よりたけ)は元文2年(1737年)に青葉土弘を招いて儒官とし、藩士に限らず城下の町人も対象として講堂で講義をさせています。

 六代頼真は父五代頼恭(よりたか)の志を継いで安永8年(1779年)に、それまでの規模より倍増して中野天満宮の北側(現在の香川県庁付近)に学館を建て、講道館と名づけ、後藤芝山を総裁とし、翌年開学しました。さらに九代頼窓は天保三年(1832年)一八三二)に孔子像 を安置した聖廟を建築しました。明治4年(1871年)7月の廃藩置県の伴い藩校は廃止されるまで、藩の教育機関として多くの人材が育てられました。

 文久2年(1862年)一一代瀬聴(よりとし)によって藩校のいわれを記した石碑が建てられており、現在、香川大学附属高松小学校の校庭に移されています。

高松市教育委員会
贈公益財団法人松平公益会

大正12年(1923年)12月、高松高等商業学校設立。

 香川大学経済学部(旧:高松高等商業学校)幸町南7号館前に「隈本先生」の像があった。


作者は新田藤太郎。

昭和31年(1956年)11月、建立。

成蹊隈本繁吉先生は福岡の人東大文科に學び夙に教育界に身を投じ大正十三年春高松高等商業學校を創立と共に迎へられて初代校長と為り謹厚その道を説くや厳正その子弟を遇するや慈父の如く在職四ヶ年至誠以て創業の事に當らるされば學校一致先生に應じて努めよく學び學園悠久の礎石こゝに定まるかくして樹立されし校風の下巣立ち行きし又信會員四千名ひろく各界に活躍して母校の聲名愈々高し昭和二十七年八月先生郷里にて壽女子夫人にみまもられつゝ七十九年の生涯を閉づ先生を敬慕する者相諮り茲に遺影を留め永くその徳を偲ばんとす

交友会館の脇に大平正芳の像があった。


昭和57年(1982年)10月、又信(ゆうしん)会建立。

作者は矢野秀徳。

君は明治43年(1910年)香川県三豊郡豊浜町に生る。旧制三豊中学高松高等商業学校を卒業。昭和11年3月東京商科大学を卒業後大蔵省に入り各部局の要職を勤め大蔵大臣秘書官を経て、昭和27年10月衆議院議員に初當選して政界に身を投じ爾来連続当選11回。その間外務大臣通商産業大臣として國政の中枢に参画すること多年。昭和53年12月内閣総理大臣となり、わが国政界の最高権威者となる。君は資性温厚事を處するに塾慮慎重内外の信望も敦く治績大いに挙る。わが国内外の情勢正に緊迫せる今日、君の今後の活躍に期待するところ大なりしが、図らずも55年6月病を得て急逝さる。真に痛惜の情に堪えず。享年70歳。

大平正芳胸像の由来

 母校(高松高商)創立50周年(昭和46年)記念に当り、又信会では香川大学経済研究所の事務室及び図書館拡充のために、交友会館の建設に要する寄附募金会を起ち上げ、募金会長に高商6回卒の大平正芳同窓会員(当時、外務大臣に就任いただき、募金活動に精励した。その結果、1億2千万円有余に達する募金額を得て、同会館の建設、さらに独立会計にて大平募金会長個人の胸像(ブロンズ像)を建立することになった。前者には法人の寄附行為を含むが、後者は又信会の純然たる個人寄附のみに依る。その結果、600万円余の資金を得た。制作は丸亀市出身の矢野秀徳、台石は庵治石。

 大平記念財団は大平の遺志により偶像崇拝のブロンズ像の建立には賛成しない。しかし、例外として後輩への激励になるのならば、母校のみは許可するとし、同時に肩書は一切つけない「大平正芳」の尊称ぬきの表記とすることを厳格な条件に建立を許諾した。母校の東京商大(現、一橋大学)にさえも大平像は存在しない。

 以上、本会として最低限の記録をここに誌す。

2018年3月

又信会

大平正芳は唯一の香川県出身総理大臣である。

 平成17年(2005年)10月11日、旧・観音寺市、大野原町との対等合併により観音寺市豊浜町となった。

観音寺市豊浜の八幡神社境内にも大平正芳像あるそうだ。

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