私の旅日記2014年

達谷窟〜坂上田村麿〜
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 平泉町平泉北沢の県道31号平泉厳美渓線沿いに達谷窟毘沙門堂(HP)がある。


達谷窟毘沙門堂縁起

 約そ1200年の昔、惡路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に賽を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿を征夷大將軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する惡路王等は達谷窟より3,000余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大將軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。延暦20年(801年)大將軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大將軍は、先勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし毘沙門堂と名付けた。そして延暦21年(802年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人を開基として東西30余里、南北20余里の広大な寺領を定めた。

 降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願の為、寺領を寄進し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。文治5年(1189年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が『吾妻鏡』に記されている。中世には7群の大守葛西家の尊崇厚く、延徳2年(1490年)の大火で焼失するが直ちに再建された。戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火に罹り、岩に守られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門悉く焼失した。慶長20年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂は立て直され、爾来伊達家の祈願時として寺領を寄進されていた。

 昭和21年隣家から出火。御本尊以下20数躰を救い出したが毘沙門堂は全焼した。昭和36年に再建された現堂は創建以来五代目となる。内陣の奥に慶長20年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師作と伝える御本尊・吉祥天・善膩子童子を秘佛として収める。次の開扉は平成54年となる。

 毘沙門天は、寅年の守本尊である。また軍神であり悪鬼を拂い、財宝・官位・知恵・寿命等の福を招き、諸々の願が叶うとされ、毘沙門講を結び参詣する人々が後を断たない。毎月3日の月例祭、春秋の大祭を始め多くの祭事があるが、特に正月1日から8日迄行われる修正會は慈覚大師から恵海大尚が伝え、千余年も続く神事である。

文治5年(1189年)9月28日、源頼朝は達谷窟を訪れた。

二品専ら泰衡の辺功を敗り、飽くまで俊衡等の帰往を掌し、漸く鎌倉に還向し給ふ。召し具せらるるの囚人、所処に於いて多く放免せらるの間、残る所三十余輩なり。御路次の間、一青山を臨ましめ給ふ。その号を尋ねらるるの処、田谷の窟なりと。これ田村麿・利仁等の将軍、綸命を奉り征夷の時、賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構えるの岩室なり。その巖洞の前途、北に至り十余日、外浜に隣るなり。坂上将軍この窟の前に於いて九間四面の精舎を建立す。鞍馬寺を模せしめ、多聞天像を安置し西光寺と号し、水田を寄付す。寄文に云く、東は北上河を限り、南は岩井河を限り、西は象王岩屋を限り、北は牛木長峰を限るてえり。東西三十余里・南北二十余里と。


鳥居


 「一之鳥居ハ石之鳥居、二之鳥居ハ丹之鳥居、三之鳥居ハ杉之鳥居」と称され、古くから参道にあった。三之鳥居は明治初期に、二之鳥居は昭和30年に失われたが、平成10年に再建された。二之鳥居、三之鳥居ともに、他には見られない特殊な形式を今に伝えている。一之鳥居は「ひこじうらう、とくぢ、せいのじやう」という達谷村の3人の石工により達谷石を用いて江戸時代に建立されたものである。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は平泉から達谷窟を訪れている。

 是ヨリ達谷が窟、岩洞ノ深十間余アリ。此洞に二階堂、八間九間と見えたり。多門(聞)天安置。不断鎖テ人不入。大同二年田村丸建立と縁記(起)に有。所は高山幽谷にして、人倫絶たる辺土、いか成鬼か住捨て、旅人尋入て道に迷ふ。此所より山の目と云へ出、又一ノ関通リ金成村へ出る。此村一里脇に、つくも橋アリ。

            梶原平次兼高

   陸奥の勢は味方につくも橋

      わたしてかけんやすひらが首


 享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。達谷窟を訪れている。

達谷か窟へこす。二里余、西光寺といへり。住僧かたりて云、平城天皇のころ、悪露王・赤頭太郎・高丸、三人の姦賊勅命にそむく。田村丸これを征伐せしむ。窟の高さ二十間、奥へ四十間余有。このうちに棧造りの一堂を建て、慈覚大師が百八躰の毘娑門の像を安置す。岩上に源義家弓筈を以て大日如来の一像、方五間にあまる容貌奇偉たり。むかふに蒲地天女、霧山禅定たり。こゝに昼やすみし、椎の葉にもり、酒のむ。

葛の花魔仏一如の扉かな

風の谺いはて夏花の匂ひ哉
    北


 元文3年(1738年)4月、田中千梅は平泉の帰途、達谷窟を通る。

道の邊達谷の窟とておそろしき岩洞に坂の上乃田村凡大同年中の建立といふ多聞天乃堂遠拜して過


 元文5年(1740年)、榎本馬州は平泉から達谷窟を訪れている。

一つ葉や夏に寒毛(そげ)立つ岩の奥


 延享3年(1746年)、宋屋は達谷窟を訪れている。

   達谷窟

日盛に角は出さじかたつぶり


 明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に平泉から達谷窟を訪れ句を詠んでいる。

   達谷窟毘沙門安置

岩ひばを鎧て立り多聞天
   蝶羅

岩ふじハ鉾のしるしや多聞天
   嵐亭


 寛政5年(1793年)、玉屑は達谷窟を訪れているようだ。

ほとゝぎすなくやその夜の佛達

『阿都満珂比』(巻之四)

毘沙門堂


中古文学の故郷

達谷窟と田村信仰

 征夷大將軍坂上田村麿公東征の靈蹟で殺生禁斷地、國指定史跡達谷窟に関する最古の記録は『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月18日の条であり、これ以降『田村三代記』『諏訪大明神繪詞』『鹿嶋合戰』『神道集』等の中世文學や藝能の他、日本國中の社寺縁起にこの窟の名が記され、古来奥рナ最も著名な窟であり、また窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なお日本一の規模を誇る大堂であります。

 御創建の大將軍に於かれましては『公卿補任』に「毘沙門天ノ化身來タリテ我國ヲ護ル」と記されてゐる様に、大將軍は神であり、その本地を毘沙門天と見做す田村信仰発祥の靈場として、貴賤の尊崇を集めて参りました。

 窟毘沙門堂内陣の扉の奥に祀られる御本尊様は、慈覺大師が毘沙門天の化現である田村麿公の御貌を模して刻し給ふ攸(ところ)の秘佛であります。それ故に毘沙門様に抱かれた床下の廣い空間は往古より守護不入とされ、諸國行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の憩める安住の宿として、また合戰に敗れた武士が暫し身を隱し、而る後生まれ變かはつ往く再生の場として、さらには御先祖様の靈魂があの世から歸り來て集ふ聖なる所として、現在も人の立ち入る事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「現世で毘沙門様を拝めば災に遭ふことなく、極樂往生の際は毘沙門様が擁護し給ふ」と言はれる程、隆盛を極めました。

 三つの鳥居を潜り達谷窟毘沙門堂の御神域及び別當の達谷西光寺境内に座す諸佛諸~に御参りすれば、延暦廿年創建以來、今も變はらぬ田村信仰の佇ひを、きつと懐かしく感じられることでせう。

   南無大慈大悲夛門天王

   南無田村大將軍

岩面大佛


 毘沙門堂西方の約そ十丈(約33m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた麿崖佛は、前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓弭(ゆはず)を以って彫り付けたと伝えられている。この大佛は高さ55尺(16.5m)、顔の長さ12尺(約3.6m)、肩巾33尺(約9.9m)全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。元禄9年(1696年)の記録に「大日之尊體」(岩大日)その後岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている。

 猶、尊名は岩大日の記録から大日如來とする考えもあるが、拙寺では昔から阿弥陀佛の名号を唱えており、戦死者追善の伝説からも阿弥陀如來とするのが正しいと思われる。その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317年)には阿弥陀の種子である「キリク」が刻まれている。明治29年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでおり、早急な保護が叫ばれている。

金堂


 古くは講堂とも呼ばれ、延暦21年(802年)に達谷川対岸の谷地田に建てられたが、延徳2年(1490年)の大火で焼失した。江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治62年に再建に着手し、平成7年に完成した。桁行五間梁間六間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られた。本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた4尺(約120cm)の薬師如來である。

大同2年(807年)、円珍の開山。

天台宗の寺である。

平成20年(2008年)6月14日、岩手宮城内陸地震で石灯篭倒壊。

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