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米内光政氏は盛岡の人 若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる 昭和二十年八月太平洋戦爭の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の聖斷を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ 後進 小泉信三 |
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米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。昭和12年(1937年)には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。 天皇の信頼も厚く、昭和15年(1940年)には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。 |

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謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である 明治天皇御齢16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく國運拓開の萬機を総攬せらる 御聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恰も明治9年7月7日東北御巡幸の砌り畏くも 天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります 謹白再拝 |

