私の旅日記〜2010年〜
盛岡城跡〜盛岡銀行〜
盛岡市内丸に盛岡城跡がある。
盛岡城は日本100名城のひとつである。
小峰城、会津若松城とともに東北の三名城の1つに数えられるそうだ。
寛延4年(1751年)秋、和知風光は白河から『宗祇戻』の旅に出る。南部城下で越年。
南 部 城下に春を迎て歳旦としのくれ二句
鐘聞て誠の春になりにけり
我は旅にあそひて年を忘ぬる也
嘉永5年(1852年)3月11日、吉田松陰は盛岡へ。
十一日 晴。未後雨あり。村を發す。渋民を經て盛岡に至り、中津川の橋を渡りて、村井京助を訪ふ。石町に至りて宿す。行程三里。是れ南部美濃守二十萬石の都なり。
今は岩手公園になっている。
本丸南西部の石垣
明治39年(1907年)12月16日、河東碧梧桐は岩手公園を見ている。
南部にもこんな日和があるかと思うほど穏やかな日じゃ。
午後岩手公園を観る。幾万円とかを費やしたというので、東奥の天地に評判の公園になった。東京の日比谷公園を作った人の設計になるとかで、樹木の植え方、丸い自然石で畳んだ溝、四阿屋の洒落な作り、いずれも日比谷公園式である。ただこっちは築き上げた昔の城跡をそのままに取囲んだので、日比谷の平面式とは反対に突起的である処が違う。
それから、根から白い雪の南部富士に対する雄大な景と、古雅な鰐口でも振るような馬の鈴を聴く趣きとは、武蔵野を掘り返しても見当らぬ。
片富士の片そぎや雪の峰つづき
「南部富士」は岩手山。別名、南部片富士。
「二の丸」に新渡戸稲造文学碑があった。
願はくはわれ
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太平洋の橋
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とならん
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文久2年(1862年)8月8日(新暦9月1日)新渡戸稲造は盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。
大正7年(1918年)、東京女子大学学長に就任。
昭和59年(1984年)11月1日発行の五千円紙幣の肖像として知られている。
昭和37年(1962年)9月1日、新渡戸稲造生誕百年を記念して建立。
石川啄木の歌碑もあった。