日本現代詩歌文学館に隣接して山口青邨の三艸書屋と雑草園が復元されていた。 |
及川古志郎は旧制岩手県立盛岡中等学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)出身。1学年上に米内光政、3学年下に石川啄木がいた。 昭和6年(1931年)、青邨は東京都杉並区和田本町のこの家に移り住み、生涯をここで過ごした。 |
八月十五日終戦記念日、戦中庭に落ち火を噴きし焼夷弾、その殻を筒とし庭の向日葵を挿すを例とす |
昭和54年作『日は永し』所載 |
私の家の界隈は五月二十四日の夜、東京最後の空襲だった。焼夷弾が花火のように降り注ぎあたりは火の海、横なぐりに火の粉、焔の塊が飛んできた、熱風で眼があけられなかった、茂った木や草や竹藪がばらばら火の粉をふり落した。 一本の焼夷弾の殻がある、庭につきささってぼうぼう火を噴いていたのだ。金属製の筒、花活けに手頃だ、終戦三十年、花を活けて床に飾ろうと思う。 花は何にしよう、鹿の子百合、向日葵、どっちも庭の花だ。
『三艸書屋』雑筆所載「終戦の日」より抜粋 |