2009年石 川

宝泉寺〜桜井梅室の句碑〜
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田井菅原神社から金沢市子来町の宝泉寺(HP)へ。


石段を登る。


左手に小さな芭蕉の句碑があった。


柳陰軒址

ちる柳あるじも我も鐘を聞く

柳陰軒は鶴屋句空の草庵。

芭蕉は柳陰軒に一泊したと伝えられているそうだ。

      柳陰軒句空に舎るとき

   ちる柳あるじも我も鐘を聞

此く細道にもれたり。

『芭蕉翁句解参考』(月院社何丸)

『俳諧一葉集』『芭蕉句鑑』に収録されているが、存疑句である。

大正14年(1925年)8月29日、荻原井泉水は柳陰軒址を訪れている。

 それから卯辰山へは近かった。卯辰山というても町の後ろにある一つの丘なので、今は公園になっている。その麓町に接した方に賢聖坊という寺が明治の中頃まで残っていた。それが句空の寺だったという。庭に大きな柳の木があったので、句空は自ら柳陰軒と称していた。

『随筆芭蕉』(金沢一覧)

摩利支天山宝泉寺


高野山真言宗の寺である。

本尊は摩利支天。

 京都建仁寺の禅居庵の摩利支天、東京上野の広小路の摩利支天とともに「日本三摩利支天」と称されているそうだ。

本堂の前に桜井梅室の句碑があった。


ひと雫けふの命ぞ菊の露

もうひとつ梅室の句碑があった。


屋の棟にそふて殖けり梅柳

昭和34年(1959年)11月、大河蓼々建立。

田川鳳郎、成田蒼キュウとともに「天保の三大家」の一人。
※キュウは虫+おつにょう

昭和31年(1956年)10月3日、高浜虚子は卯辰山を訪れている。

 卯辰山といふ名は、古く私の頭にあつた。芭蕉の弟子の僧祇空といふ人の編んだ句集の名前が「卯辰山」といふのであつた。それは聞き傳へた句とか手紙の端にあつた句とか、さういふものを書き集めた、うすつぺらな書冊である。私は昔その本を古本屋で求めた。私が俳句をはじめて、まだ間もない頃であつた。神田の古本屋を漁つてゐる時にふと其本が目に止つて、乏しい財布をはたいて求めたものであつた。その中に

   草餅や出流れの茶を温めて   祇空

といふ句があつた。今も尚ほこの句を覺えて居る。これはまだ子規の元氣な頃であつた。子規は

「俗な句ぢやないか」

といつて、其の祇空といふ人も輕蔑したやうな口吻であつた。私はそれにもかゝはらず何處となく好きであつた。

 祇空といふ法師は芭蕉の門流の一人で金澤の人であつた。書物の名前の卯辰山といふのは、淺野川を隔てゝ金澤の東南端に横たはつてゐる小高い山であつた。はじめて來た時に其事を聞いた。

「これがその卯辰山か」

と思つてそれを眺めた。

「老いての旅」

「祇空」は「句空」のことであろう。

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