2023年石 川

暁烏敏の像〜松任駅南広場〜
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松任駅南広場に千代尼の歌碑があった。


あそびたき
 あのきに成りて
    藤の花

暁烏敏(あけがらすはや)の像


汝自當知

米林勝二(よねばやしかつじ)制作

暁烏敏先生

 近代わが国宗教界の偉聖暁烏敏先生は、明治10年7月12日、本市北安田真宗大谷派の明達寺に生れた。10歳にして父を喪い、以後専ら母の育てる所であったが、その孝心は「十億の母」の歌に表れている。金沢に出て本願寺共立の中学校に入学したが。同校が明治26年石川県に移管と共に仏教科が無くなったため京都の真宗中学校に転じ、そこで、佐々木月樵、多田鼎ならびに終生の恩師清沢満之に出会い、東京に満之の浩々洞が実現した以後は佐々木多両師に併せて洞門の三羽烏と賞せられた。当時以来歎異鈔の講鑽に努め、進んで大無量寿経の身読に入り、遂に「汝自当知」の句に仏知見を得て全生涯を仏教による社会指導にかけたのである。とりわけ聖徳太子を崇めその思想的影響は絶大である。昭和11年自坊に於いて大報恩会を催して仏教徒の行状を範示し、同時に大日本文教院を開いて国の内外に活躍する門弟修練の淵源とした。夙に親鸞の教えを全世界に光被せんとする志あり、大正15年インドに仏蹟を巡拝した後ヨーロッパに渡り、改めてアメリカに布教し、国内に就いてはその足跡の至らぬ所はなかった。不幸中年にして失明したが心眼却って明徹し、昭和26年東京本願寺宗務総長となった。前年金沢大学へ所蔵5万余の書符を寄贈、また同29年境内に臘扇堂を建立して師恩に報じたが同年8月27日、78歳で自寂した。

元金沢大学教授文学博士橋本芳契謹み書す

暁烏敏の歌碑


      十億の人に
十億の母あらむも
   わが母にまさる
      母ありなむや

平成14年(2002年)、米林勝二没。

北陸本線松任駅


金沢へ。