2013年〜兵 庫〜
有岡城跡公園〜「荒木村重・たし」の歌碑〜
南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城は、永正17年(1520年)には城下町をも城の中に取り込んだ「惣構(そうがまえ)」構造の兆しが見られ、その後の一向宗との合戦など、数々の戦いを経て次第に強化されていきました。 天正2年(1574年)、織田信長の部将、荒木村重が伊丹氏を破って入城し、「有岡城」と改名しました。そして摂津一国の軍事上の中心とした大改修を行い、主郭部・侍町・町屋地区の全体を塀と土塁で囲み、北・西・南にそれぞれ砦を配した惣構の城を完成させました。 天正6年(1578年)、村重が信長に背いたため、大軍によって包囲され、10ヶ月の攻防戦の末に落城しました。その後、池田之助(ゆきすけ)が城主となりますが、同11年には美濃国に移り、城は廃されました。城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。主郭部は「古城山」などと呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在のJR宝塚線)が開通したことにより、大半が取り壊されました。 しかし、昭和50年(1975年)から行なわれた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など、貴重な遺構が残されていることがわかって、国史跡に指定されました。現在の史跡公園は昭和58年度から平成5年(1993年)度まで10年以上かけて整備したものです。現在地から右手(北方)にある土塁・石垣・井戸跡などもぜひご覧ください。
伊丹市教育委員会 |
前に酒家ありて |
菊のしたゝりを流し |
後に松高うして |
古城の昔を見す |
おにつ羅 |
月花を我物顔の枕かな |
天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得に黒田官兵衛が有岡城に赴きますが、村重は諸事情を考慮し、やむなく官兵衛を幽閉します。この間、官兵衛が力強く咲く『藤の花』を見て生きる勇気を得たという逸話は有名です。 この物語を後世に伝えるため、官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹を植樹しています。
伊丹市 |
伊丹氏が、この場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。 伊丹氏の城は、天正2年(1574年)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後、村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。 有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6キロメートル・東西800メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。 謀反を起した村重は、天正6年、信長勢の攻撃を受け、10ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。 天正8年、池田之助が城主となるが、同11年美濃の国に転封を命じられ、廃城となった。 明治26年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削りとられたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。 昭和50年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
伊丹市教育委員会 |
あらきたし |
霜かれに残りて我は八重むくら |
なにはのうらのそこのみくつに |
荒木村重 |
思いきやあまのかり橋ふみならし |
なにはの花の夢ならむとは |
『信長公記』より |
鈴木充筆 |