『奥の細道』北 陸


建聖寺〜はせを留杖ノ地〜

本折日吉神社から建聖寺へ。


永龍山建聖寺


曹洞宗永平寺の末寺である。

建聖寺は「はせを留杖ノ地」。


 一 廿五日 快晴。欲小枩立。所衆聞而以北枝留。立枩寺ヘ移ル。多田八幡ヘ詣テ、眞盛が甲胃・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井伊豆宅ヘ行。有會。終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。

『曾良随行日記』

「立枩寺」が現在の建聖寺であるという。

建聖寺に「蕉翁」と書かれた句碑があった。


蕉  翁

しほらしき名や小松吹萩すゝき

宝暦13年(1763年)、既白建立。

既白は建聖寺の住職で、高桑闌更と共に金沢で狐狸窟を営んだそうだ。

北国行脚の時、いづれの野にや侍りけん、「あつさぞまさる」とよみ侍りしなでしこの花さへ盛過行頃、萩薄に風のわたりしを力に、旅愁をなぐさめ侍りて

しほ(を)らしき名や小松吹萩薄
   ばせを


「蕉翁」碑の右にもうひとつ句碑があった。


志ほらしき名や小松ふく萩すゝき

建聖寺に立花北枝作の芭蕉木像が残されているそうだ。

 大正14年(1925年)8月30日、荻原井泉水は建聖寺を訪れて芭蕉の木像を見ている。

寺町の建聖寺という寺に北枝が刻んで納めたという芭蕉の像があった。高さ六寸ばかりの木彫で、裏に「元禄二のとし北枝謹て作之」としてある。芭蕉はここに三日ほど滞在していたから、その暇に北枝が作ったのであろが、北枝は一体この町の生れである(小松町鍛冶町、通伝に研屋町というのは誤)という縁故から此処の寺に納めたものかもしれない。

『随筆芭蕉』(小松という所)

 私は旅の通りがかりで拝見できるようなものではないと思い、後日のこととした。

 昭和40年(1965年)、山口誓子は建聖寺に句碑を訪ている。

 その句碑を私は訪ねて行った。駅前の大通を突き当って、右へ行けば、寺町。左側に建聖寺という寺がある。門前に「はせを留杖ノ地」と書いた標柱が立っているから、直ぐわかる。

 門を入った右に、大小二つの句碑が並んでいる。

 右は小碑。

   しほらしき名や小松ふく萩すすき

 左の大碑には、中央に「蕉翁」、右に高く「しほらしき名や」左に下げて「小松吹く萩薄」。建立の年代は、朽ちて明らかではないが、この寺中興の僧、既白が建てたと云う。この方が古い。小碑の方だってかなり古びている。

『句碑をたずねて』(奥の細道)

菟橋神社へ。

『奥の細道』北 陸に戻る