2013年北海道

小樽運河公園〜小樽赤い靴・親子の像〜
indexにもどる

小樽市色内の北運河沿いに小樽運河公園がある。


小樽運河公園


小樽運河の歴史

 小樽運河は大正3年(1914年)から大正12年(1923年)にかけて、陸地前面の海に島形及び半島形を埋め立てを行い、陸地と埋め立て地の間に水路を通す「運河式埋め立て」によって作られた。全長は約1kmの港湾施設です。

 当時、運河沿いには木骨石造倉庫が立ち並び、港内停泊の貨物船と運河の間を運搬船である艀(はしけ)が往来して荷役を行っており、静穏な運河は艀荷役の主人公でした。しかし、貨物船が埠頭に接岸する荷役が主流の時代となったため、艀と運河の役割は、急速に低下するとともに、道路交通網の整備が急務となり、運河を埋め立て、幹線道路(臨港線)を整備する計画がたてられました。

 そして、「開発は保存か」の一大論争の末、運河の幅の半分を残して埋め立てを行い、現在の姿となりましたが、この辺りは幅40mのままで建設当時の面影を残しています。

小樽運河公園の片隅に「小樽赤い靴・親子の像」があった。


童謡「赤い靴」と小樽の街

 この歌のモデルとなった「きみ」ちゃんは、2歳の時に母「かよ」と共に静岡から函館に渡った。そこで母は鈴木志郎と出会い結婚するが、留寿都村へ入植の際、きみを外国人宣教師夫妻に預けた。その後きみは宣教師夫妻の帰国時に重い結核のため横浜から船で米国に渡れず、東京の孤児院に托され、わずか9才でこの世を去った。

 1907年に志郎は札幌の「北鳴新報」に就職し、そこで野口雨情と出会い家族ぐるみの交流を深める。母は娘きみの話を打ち明け、それが雨情の詩となり本居長世が曲を付けて1922年童謡「赤い靴」が生まれた。

 札幌の後、志郎・雨情は「小樽日報社」で石川啄木と机を並べ親交をもつ。

 鈴木夫妻は各地を転職した後、1940年小樽のカトリック富岡教会の門前に居を構え、きみの死を知らずその幸せを信じ、熱心なキリスト信者として暮らし、今は中央墓地で眠っている。

 私達は、世界中の苦しみを抱えた家族の幸せを願い、小樽市民をはじめ全国からの温かい募金によって、ゆかりのある小樽の地に「赤い靴・親子の像」を建てた。

 天国できみちゃんが幸せに暮らす姿を夢に描いて・・・

2007年11月23日 「赤い靴・親子の像」建設委員会

台座に「赤い靴」の歌詞が刻まれていた。

赤い靴
はいてた
女の子
異人さんに
つれられて
いっちゃった

  作詞 野口雨情

平成24年(2012年)、小樽グリーンライオンズクラブは創立45周年記念行事として「赤い靴・親子の像」を引き継ぎ、維持・管理することになりました。

旧日本郵船株式会社小樽支店


重要文化財

旧日本郵船株式会社小樽支店

 この建物は、明治39年日本郵船株式会社が小樽支店として新築したものです。設計は工部大学校出身の佐立七次郎工学博士で、当時としては最も新しい石造洋風建築です。新築後間もなく、日露戦争の講和条約による樺太の国境画定会議が小樽で開かれることになり、この建物の2階会議室において両国代表による会議が開かれ、隣の貴賓室で祝杯が交わされました。昭和30年、市がこの建物をゆずり受け、小樽市博物館として使用していましたが、昭和59年から62年にかけて保存修理工事を実施し、営業室、会議室、貴賓室などを往時の姿に復元しました。

2013年北海道〜に戻る