2013年北海道

神威岬自然公園〜エゾスカシユリ〜
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「岬の湯しゃこたん」から国道229号で神威岬自然公園へ。


女人禁制の地 神威岬


梨本弥五郎と女人禁制の解除

 その昔、神威岬の沖合は「魔の海」として多くの人々に恐れられており「婦女子を同伴して行けば神霊の怒りにふれ、その船は必ず転覆する」という迷信があった。

 安政2年(1855年)幕府が蝦夷地を直轄して開拓を計画してから、箱館奉行が神威岬以北に対しても移住民の土着を奨励した。

 翌年の安政3年、箱館奉行調役下役元締の「梨本弥五郎」が幕府に宗谷詰めとして赴任するよう命じられた。この命を受けた梨本は下役や妻子を連れて赴任するのだが、神威岬を通過する時、海は荒れ舟子たちは恐れおののいた。

 しかし梨本は毅然と立ち上がり、岬の岩角に向かって大声で叫んだ。

 「私は征夷大将軍家定の家来である。いま主君の命を受け岬端を通るに、なぜ神罰を受けなければならないのか」

 そして、その岩角めがけて銃を打ち放った。

 銃声が波濤を打ち破り岬に響き渡ると、神霊の怒りはおろか海は穏やかそのもので、全員無事に岬を越え赴任地に着くことができた。

 この梨本の岬越えがきっかけで、神威岬の女人禁制が事実上解かれたことになるのだが、しばらくは迷信の影響を受けてか、女性たちは自分のために海が大荒れになることを恐れ、船艫の板子の下に隠れたり、筵をかぶって全身を隠して通ったといわれる。

神威岬先端まで歩く。


積丹ブルー


念仏トンネル


念仏トンネルの由来

 大正元年(1912年)10月29日午前8時半ごろ、神威岬灯台の草薙灯台長夫人、及び土谷補員夫人とその二男(3歳)が天長節(天皇誕生日)のお祝いの品物などを買い出しに余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近で荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死した。

 ワクシリ岬は上は断崖絶壁、下は波打ち際の険しい地形で、なぎや干潮の時はわたることができるが、そうでないときは容易に越えることのできない難所である。

 土地の人々はこのような海難事故が再び繰り返されないようにするため、大正3年にトンネルを造る計画をたて着工した。

 開削作業は岬の西側と東側の両方から同時に始められたが、測量計画の誤算か開削技術が未熟なためか、トンネルの中央で食い違いが生じ工事が頓挫してしまった。ところが村人たちが犠牲者の供養をふくめ、双方から念仏を唱え鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向がわかり工事を再開することができたのである。

 このようにして大正7年11月8日に開通となり、以来「念仏トンネル」の名がある。

 また、この全長60メートルのトンネルは割合低く中が真っ暗闇なため、「念仏を唱えながら通ると安全である」と言い伝えられている。

ハマナス


エゾスカシユリ


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 余市より一里にして、神威岬に達す。高き岬角の上に、燈台あり。岬より暗礁続き、崛起して神威巌となる。高さ数十丈、恰も海神の立てるが如し。暗礁なほ続き、処々波上に露はれて、数十町の外に達し、北海道の海を両断す。これより北に怒濤躍る時、南は穏波畳の如く、南に狂浪巌を噛む時、北は一碧天に連る。

   忍路高島及びもないが、せめて歌棄磯谷まで

 昔この神威岬より北に、女人の行くことを禁じたりければ、この俗謡も出でたる也。忍路高島は神威岬より北に在り。歌棄磯谷は南にありて、女人なほ行くことを得たりし也。

「北海道山水の大観」(神威岬)

神威岬灯台


〜女人禁制の地に立つ灯台〜

 この灯台は、北海道庁が明治21年(1888年)から6年間にわたって20基の灯台を建設した最初の灯台であり、明治21年(1888年)8月25日に初点灯しました。北海道の現存する灯台では5番目に古いものです。

昭和35年(1960年)、神威岬灯台は無人化。

神威岩


 平成29年(2017年)4月23日『大和田獏「思い出の地 食の新風」北海道 札幌〜小樽』で「神威岬」が放映された。

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