2019年北海道

赤い靴の少女像〜北海道第一歩の地〜
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函館市末広町の海岸沿いに「北海道第一歩の地」碑があった。


 明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋である。

 青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。

 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。

 連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。

 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して昭和43年(1968年)9月建立されたものである。

函館市

明治36年(1903年)、かよさんときみちゃんは吹雪の桟橋に降り立ったという。

赤い靴の少女像


小寺真知子作。

小寺真知子は函館出身でイタリア在住の彫刻家。

五稜郭タワーに土方歳三の像がある。

平成24年(2012年)6月10日、62歳で没。

「赤い靴」


      野口雨情作詞 
      本居長世作曲 

赤い靴はいてた女の子
異人さんにつれられて行っちゃった

      横濱の埠頭
       から船に乗って
      異人さんにつれられ
      て行っちゃった

今では青い目になっちゃって
異人さんのお国に
居るんだろう

   赤い靴見るたび考へる
   異人さんに逢ふ
   たび考へる

平成21年(2009年)8月7日、はこだて赤い靴の会建立。

函館市大町の海岸沿いには「新島襄海外渡航の地」碑があった。


男児決志馳千里   自嘗苦辛豈思家

却笑春風吹雨夜   枕頭尚夢故園花

 昭和27年(1952年)7月2日、木製の記念碑面が相馬倉庫壁面に嵌め込まれ、除幕式が行われた。

 昭和29年(1954年)8月21日、現在の碑が函館市と同志社大学によって建てられ、除幕式が行われた。

 新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松蔭の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を蝦夷地に選びました。

 元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ司教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。

 上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。

 この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので元治2年(1865年)香港での作です。

 渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄」の字をあてました。

 明治23年(1890年)48歳で没。

函館市

新島襄ブロンズ像は岸壁の改良工事のため撤去中だった。

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