2015年北海道

江差追分会館〜菅江真澄歌碑〜
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江差町字中歌町の国道227号沿いに「江差追分会館」がある。


「江差追分会館」に「江差追分」の碑があった。


鴎のなく音にふと目をさましあれが蝦夷地の山かいな

平成16年(2004年)9月17日、江差追分会会員・江差追分愛好者有志一同建立。

碑 記

 遠い昔、信州の浅間山陰に生まれた馬子唄は、北前船の船子や旅人達によって、この地に運ばれ、波の調べの中に、北辺の風土と人情を唄い込んだ名曲、江差追分となって美しく花開いた。

 厳しい北国の暮らしに耐えながら、この唄を守り育てた先人の心を受け継ぎ、唄の輪をさらに広げて、後世に伝えることを願うわれわれのあつい思いをこめて、この碑を建てる。

江差追分会

「江差追分会館」の隣に「れすとらん江差家」がある。

寛政元年(1789年)6月2日、菅江真澄は江差を訪れた。

その麓のあたりとおぼしくて、けぶりのほそうむすびたつを、今や緋の群(ク)来ぬらんかしと戯れり。こは、くづやきてふ、あぐた火のけぶりなり。

   すくも焚く煙りの末も治まれる風にしたがふ浦の夕なぎ

『蝦夷喧辞辯』(えみしのさえき)

「れすとらん江差家」の前に菅江真澄歌碑があった。


すくも焚く煙りの末も治まれる風にしたがふ浦の夕なぎ

 寛政元年(1789年)初夏。この年もまた、鰊は不漁のうちに漁期を終えた。不漁に泣く沿岸漁民を見てきた旅人の目に、それでも、次なる昆布の豊漁を祈りながら、砂浜を清める人々の姿が美しい夕陽に染まる影絵のように見えた。やがて、すくも(藻くずや塵芥)を燃やす煙りも細くなった。豊漁も不漁も天の定め、風に流される煙りのように、運命を受容するたくましい人々の住む浜街に、音もなく夕なぎが訪れる。一時、薄暮の静寂に包まれた江差浜の情景を詠んだ一首である。

 詠み人菅江真澄(1754〜1839)は、30歳で故郷三河を出奔、秋田角館で没するまでの45年間、ひたすら東北、蝦夷地を巡り歩いた旅人である。その足跡は擬古文で書かれた50冊を超す日誌のほか、各地の地誌、随筆など膨大な記録に残り、わが国民俗学の祖といわれている。天明8年(1788年)松前に渡り、藩主道廣公の継母文子の方(蛎崎波響の実母)の厚遇を得て在島すること4年、渡島半島沿岸に生きる和人とアイヌの生活を、共感をこめて5冊の著書に残している。

 この歌を記した日誌「えみしのさきえ」は松前と久遠の霊場太田山を往復した旅の記録である。往復とも江差に逗留したこの日誌には、多くの短歌、彩色写生図を挿入し、沿岸各地の社寺縁起から農漁民の生活風習、伝承する民話や民謡を採録したが、その主役は富とは無縁だが、常に心やさしく、夢かけて明日を生きる名もない人々であった。採録した民謡の一つに、江差追分原初の歌詞と思われる「歌は西街盛りの津花沖を眺むる山の上」がある。200余年前、これを唄いながら通り過ぎる漁師と出会ったのは、この十字路から山側に延びる馬坂のことであった。

 この歌碑の建立は、故郷の礎となった先人の志を偲び、その証しを克明に伝えた菅江真澄を顕彰することである。それはまた、この地における歴史文化の検証と再生を願う人々の、心強いよすがとなることを信ずるからである。

寄文 江差民話研究会

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