鉄筋コンクリート3階建のこの病院は、原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して破壊されました。当時この病院の一部は、 広島陸軍病院分院としても使用されていました。 地下室に置かれていたレントゲンフィルムがすべて感光したことにより、この爆弾が原子爆弾であることが立証されました。被爆後、生き残った医師・看護婦は、救護を求めて集まってきた被災者に残されたわずかな医療資材を用いて治療を続けました。
(外郭だけを残す赤十字病院 1945年9月 川本俊雄氏撮影) |
この「調べ」は、圓鍔勝三先生の極めて初期(昭和9年)の作品で、第15回帝展に入選されたものです。入選後、圓鍔先生からの寄贈を受け、当院の旧本館内に展示していましたが、昭和20年8月6日に被爆し、その片腕が壊れてしまいました。その後、壊れた片腕は、圓鍔先生に修理をお願いし、復元していただきましたが、その際。被爆時のガラス片が深く突き刺さっていたことに、圓鍔先生も深く驚かれたとのことです。なお、このレントゲンフィルムは、この作品をX線撮影したものです。現在でも、左手の甲に被爆当時のガラス片が埋まっているのが覗えます。
病院長 |
ピカードン くずれた家々はたき火のように燃え拡がり、はりの下敷きとなって、あちらこちらで助けを求める悲痛な叫び、迫り来る火の海の前に人の力は、あせれど弱い。「逃げて、早く逃げて…」と叫ぶいとしい人の声もとだえた今、後髪を引かれ、 振り返ってはころび、火の粉を浴 びながら、また、振り返る。偲い残り。 あの時、あの日を、再び繰り返してはならない。 |