平橋庵敲氷
『鶉日記』
明和9年(1772年)7月26日、平橋庵敲氷が甲斐を立ち美濃関へ行脚した折の日記。 |
過し春武江の回録をのかれて古郷山梨岡の草廬にとゝまり侍るにみのゝ国なる広瀬氏甲斐か根へなりハひの事にゆきかひする次手、不破の関屋の月見せはやといさなハれてあわたたしき旅ころも、あかつきの冷かなる防ぎまめやかに、又雨凌くへき調度もたすけもて出ぬ。頃はふつき末の六日、道のへハ、草の花露清けにむすひて前恨を慰るに似たるなるへし |
鶉なく野にそ道あれ朝朗 敲氷 |
韮崎瑞泉亭にやとる。あるしは、元より交渉からねは今宵廿六日の月待て共に語り明さんと浮園の名たゝる山に対して興尽る事なし |
真帆に向く舟山近し月の雲 同 |
廿七日、信濃国に入る。けふハ、御謝山の祭詣にとて老若打群行。雅ひひなひて興あり。宮居ところせきまて穂屋作りたる古代の有様おかしくいと□し |
薄にもたゝしきたてゝ穂屋いくつ |
廿八日、諏訪高嶋桑原居を出て湖水の岸伝ひ行く。去年の秋夏に舟を浮へて三たり四たり舷を叩てうたひ興したるなと思ひ出て |
舟寄せよ紅C釣る人に事問む |
廿九日、鳥居峠を越す。朝日将軍の城跡は宮腰の駅に続て宮の原とか聞ゆ。樋口か旧跡巴か淵、すへて山に浮ふて一里か程、皆勇士之屋敷也と里人語り伝へ侍れと礎の俤たにも残らす、草葉の露玉散るはかり、功名彼も是も一時なるへし |
猪垣の縄張広し栗はたけ 木曾梯 かけはしやあやうきを知る五十雀 |
寝覚の里臨川寺に逍て聞ふる勝景を望むに、童のさかしきか欖前に指さして名あるかきりの景ともかたり聞ゆるに、息継あへす口として耳にとゝまらぬも又興あり |
鹿はまた聞す寝覚の山おろし |
晦日、大井の高木何かしの許やとるハ朝殊に空おたやかに美濃路の稲の香は羈旅の労を養ふか如し 美濃関 八月二日、広瀬氏の許に遊袋を解て息ふ。先人、葉鶴堂何かしは、翁の直指を受て滑稽の和に遊ひ堂の記は惟然法師の筆すさひにして、しらぬ昔のかたミ也と物かたり聞程に、夕暮の風身に入はかり覚へ伝る |
扨こそと物数寄しれる垣の蔦 |
十一日 長良 和東ぬしの許に笠を脱ける甲斐有て、翁の遺章なる十八楼の記を拝す。誠に目に見ゆるかきり風冷ましき心地にそ有ける |
此あたり水に近さよ月の宿 |
有琴叟は、長良川の流れに耳を洗ふて耳もて聞す。目をもて四時の景情を翫ふの風雅に心高し。この日護鳩台に言してはしめて安し侍る |