蕉 門

簑田卯七

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長崎の俳人。田上尼の甥。十里亭。

 元禄3年(1690年)、去来が一時帰郷していた長崎から京都へ戻る折、卯七と日見峠で別れる。



   つくしよりかへりけるに、ひみといふ山
   にて卯七に別て

君がてもまじる成べしはな薄
   去来

『猿蓑』

 元禄6年(1693年)6月、長崎の卯七は上京。落柿舎去来を訪ねる。丈草と共に三吟歌仙を巻く。

   元禄のはじめ都にのぼり、落柿舎を扣
   ひて

京入や鳥羽の田植の帰る中
   卯七

   うれしとつゝむ初茄子十
   去来

『渡鳥集』

  同年秋、卯七は難波の洒堂に送られ帰郷。

   別長崎卯七

枝々に別るゝ秋や唐辛


 元禄11年(1698年)7月9日、各務支考は長崎で卯七に逢う。

此日十里亭にいたる。このあるじは洛の去來にゆかりせられて、文通の風雅に眼をさらして、長崎に卯七もちたりと翁にいはせたるおのこ也。予この地に來りて、酒にあそばず、肴にほこらず、門下の風流誰がためにか語らん。

   錦襴も緞子もいはず月夜かな


  同年7月17日、長崎を離れる前夜に支考は長崎の人々と諏訪神社を参詣。

明日はわかれむといふ。今宵人々につれたちて諏訪の神にまうつ。此みやしろは山の翠微におはして、石欄三段にして百歩はかり。宵闇の月もかけほのわたりて宮前の吟望いふはかりなし。

一は闇二は月かけの華表かな
   支考

山の端を替て月見ん諏訪の馬場
   卯七

山の端を門にうつすや諏訪の月
   素行

木曾ならは蕎麥切ころやすわの月
   雲鈴

たふとさを京てかたるもすわの月
   去來


元禄11年(1698年)、長崎滞在中の去来は田上尼の千歳亭を訪れた。

   長崎より田上山に旅ね移しける比、卯七・素
   行に訪れて、共三句

名月やたかみにせまる旅こゝろ
   去来

名月の麓を呼ぶや茂木肴
   卯七

休み日といふ(う)て山家も月見哉
   素行


 元禄12年(1699年)、芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立。



芭蕉翁之塔

   長崎に先師の碑を建て、時雨塚と名づく。
   今歳神無月十二日人々と詣て、 共四句

拝み処(ど)にのぼる小坂の時雨哉
 卯七

樫の木にたよる山路の時雨哉
 牡年

踏分る杖のあまりのしぐれかな
 野坡

こゝはまた汐のふる時雨哉
 素行


 宝永元年(1704年)、『渡鳥集』(卯七・去来編)刊。

 宝永元年(1704年)9月10日、去来没。

 宝永2年(1705年)、蓑田卯七は唐人屋敷探り番から同組頭に昇進した。

 享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って長崎を訪れる。

   三 物
  居士
六尺の池に風あり朝凉み

 乾かぬ色をもつて若竹
   卯七

雀啼く半元服をほめに來て
   燕説


 享保元年(1716年)、去来十三回忌。

隱士去來師は嵯峨に住侍りて世の人落柿舎先生と号す惜かなきのへ申の九月十日此世の秋を見果てたまひぬゆかりありて其ころ一句をもうく 俤や菊も名にちる日は十日これを集の題号となして追善の一冊を捧ける光陰流るに早く十三回のけふとは成侍りぬ同朋瓜堤軒不雄子ありし世のちなみをわすれす菊の杖といへる集をものして梓にちりはめんとなり其志を感して我かやるせなき老衰の思ひを綴て彼の子のもとへおくり侍る

  卯七
とめきらて菊にひかたし老の袖

 厂も諸羽のちからなき風
   素行

月のある平場に馬を乗しめて
   素民


享保12年(1727年)5月7日、65歳で没。

卯七の句

蚊やくらふ足かきながら高鼾


風口に来てはねころぶ凉みかな


爪紅の濡色動く清水哉


菜種よりぬれいろふかし麦の波


鐡炮の矢さきにちるや山櫻


鶯のたゝくさになる柳かな

両の手に河豚ふらさける雪吹哉

   山家に一宿して

菜の花や水風呂からの目八分


   道中吟

菜の花や居風呂からは目八分



すゝ掃や茶臼抱て四疊半


てつぽうの矢さきにちるや山櫻


山ふぢのきまゝを見たるしだれ哉


杜宇あてた明石もすくし梟

   洛の去來旅寢の比田上といふ山家にいさなひて

名月の梺を呼や茂木肴


郭公またさだまらぬ宵の雲


   明石旅泊

朧夜や出ぬけて松のからす崎


鶯の海見て鳴か須广の浦


柿の葉につれつれ當る霰かな


から崎やあられ打込浪がしら

朧よを出ぬけて松のからす崎


朝々にむせひなからや初櫻

稲妻や窓にちかよる竹もかり


時鳥笹のそよきや聲のあと


京入や鳥羽の田植の帰る中


馬買ふて打乗上や鵙の声


鉄炮の矢さきにちるや山さくら


鶴も来て耕す人に交りけり

『享和句帖』(享和3年10月)

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