五升庵蝶夢



『遠江の記』

 天明6年(1786年)3月、蝶夢は富士を見るため遠州白須賀の虚白を訪れ、その案内で入野(いるの)の竹村方壺を訪問、佐鳴湖西岸の臨江寺に逗留。方壺の案内で浜名湖巡り。方壺跋。

 ふじの山を見むとて、とほく遠江の国まで下りけるに、をりふしの春雨に旅ごろものくづるばかりにあゆみづかれぬれば、入野の江のほとり竹村うし方壺といふが許に宿をかるに、あるじは旅のあはれをもわきまへしをとこにて、「かゝる在家のすまひのいぶせきには一夜のかり寐も心のどめ給じを」と、江のむかひ、臨江寺といふてらに具しゆきて、雨のやどりとす。

 なほきのふもけふもかきくらし降雨に旅の宿のせんすべなく、方丈のおくのかたをたれこめて昼ともいはず枕していぬるを、あるじのをとこ見て、「いぎたなの法師や、なすこともあらでさいぬるほうしは牛になれる、といふものを」とあさむに、「げにも」とおき出て椽行道し、江の上を見わたして「雨亦奇なり」とずして、いたづらに日をくらすばかりなるに、ある朝、軒に雀のさへづるこゑはなやかに聞ゆれば、戸おしあけて見るに、夜べの雨雲なごりなく晴て、江のあなたなる三つ山といふ松山の上に朝日にほやかにさし上り、はるかに富士の雪の高根あざやかに見えけるに、日ごろの雨のものうさもわすらる。

   むら松やみどりたつ中に不二のやま



 朝なぎに風なければ帆はあげで、棹のうたをかしく漕出るに舟の前には見ぬ浦山つらなり、うしろには不尽の山見ゆるに、ながむることぞおほき。あるじのをとこ、ふるき道の日記どもとう出、くりひろげてよむとて、「まづいまこぎゆくかたの舞坂のうまやは、もと舞沢が原なり。いにしへ浜名の橋へこの駅よりつゞきたる松原のありて、水うみ・しほうみをへだてたり。其湖の落入る所にわたせし橋なりし。その橋のあたりよりのながめ、世にたぐひなき風景なることを、昔人の多くしるせし、そが中の一二を集てかたらむに、

 「さらしなの日記」には とのうみは、いといみじくあらき波たかくて、入江のいたづらなる洲どもことものもなく、松原しげれる中より波のよせかゝるも、いろいろの玉のやうにみえて、まことに松のすゑより波はこゆるやうに見えていみじ。

 「うたゝ寐」には 浜名の浦ぞおもしろき所なりける。波あらきしほの海ぢ、のどかなる水うみのおちいりたるけぢめ、はるばるとおひつゞきたる松の木だち、絵にかゝまし。

 「海道記」には 橋の下にさしのぼるうしほは、かへらぬ水をかへし、上さまにながれ、松をはらふ風のあしは、かしらをこえてとがむれどもきかず。大かた羇中の贈答は此処に儲たり。北にかへり見れば、湖上はるかにうかむで、波のしは水の顏に老たり。西にのぞめば、湖海ひろくはびこりて、雲のうきはし、風のたくみにわたす。

 「東関紀行」には、南には潮の海あり、漁舟波にうかぶ。北には水うみありて、人家きしにつらなれり。そのあいだにすさき遠くさしいでゝ、松きびしく生ひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松のひゞき・波のおと、いづれもきゝわきがたし。



 「菅原孝標女の記」に、はま名の橋、下りし時は黒木をわたしたりし、このたびはあとだになし。舟にてぞわたる。



 「長嘯の記」に、

 恋わたる都はとほつあふみなる浜名のはしに心はなぎぬ

とはよめり。さるをそのゝちならむ、つねならぬ大浪の寄けるにうち崩されて、こなたの松原・かなたの橋もいづち行けむ、あらずなりて、今の世には松原のありしあたりを今切(いまぎれ)のわたりとて、三十町あまり潮うみと水うみ一つになれるなり。大海より入来る高浪に、往来(ゆきか)ふ舟のわづらひありとて、公より数しらず杭の木を海にうたさせ給ひて、其波の荒きをさゝゆるに、いつとなく杭のもとによせたる真砂のおのづから洲となり、そが上に松どもおひたるを見やれば、むかしの海道の松原もかくと面影おぼえぬ。その中を旅人の往来ふ舟は水鳥のうきつれたるごとし。かの橋わたせしあとは、いまの荒居の駅・橋本の里より西にかけしものと聞」と指さしをしふるに、

   橋ぞむかしはいまは霞をわたるふね

と見るまゝをいひ出れば、京よりともなひし老をのこ、

そのはそのあとさへ見せず朝がすみ
   萍江

舟の中の誰もかれもうめき出せるは、

橋ゆかし松のとぎれの一かすみ
   報竹

浪のはな跡は朧の橋ばしら
   虚白

橋かけてそのあと見せよ帰るかり
   方壺

あまた句きゝけるも、景色みるとてうちわすれぬ。

 海べたに門いかめしく釘ぬきせしは、新居の関の戸也。橋本は浜名のはしもとにて、むかしは海道の中にても、ことに遊びの多かりし所ぞ。「東鑑」に「於橋本駅、遊女等群参。有繁多贈物云々」。梶原景時が、

  はしもとのきみには何かわたすへき

と云かけしに、

  たゞそま河のくれてすぎばや

と、頼朝卿の連歌し給ひしとや。源太山とは、鎌倉殿の此うまやにとまり給ふ時、梶原太郎この山にありて守りけるといふ。



 門に「常霊山」の額をかゝげしは、かの御経の「常在霊鷲山」の文によれりやと、其こゝろを、

   このやまやさくらはちれど香はのこり

仏のおはする堂も僧のこもれるむろも、みな蘆もてふけるは、浦里めきてあはれ也。ある室にをさなきこゑしてたからかに御経よめるを

散りかゝる花ぞ誦経もこゝろあれ
   方壺

花ちりて猶もおくある御寺かな
   虚白

ちるさくらさらに寺とふ人もなし
   斗六



ことし天明むつとかぞふる春の末、蝶夢幻阿ひじり、宮古の花ざかりを見すてゝ、参河の鳳来寺、此国の秋葉寺の山々にまうでたまふを、白菅のわたりの虚白あなひして、我家にいざなひまゐらせけるに、一日この江の遠近に舟さして見せまをしける、そのことを書つらねたまふなり。むかし増基の「いほにし」に「遠江の道の記」あれど、みづうみのあたりめぐれることはしるさず。いまの記につばらに書たまふこそ、「一丘一壑、因人而顕」とはいふならめ。

   遠江入野の江、三山の下にすめる、

方壺書そふ。

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