三秀亭李喬
『旅の日数』
李喬は三河の蕉門宇古伝来の曲水宛書簡(元禄4年11月13日)の真蹟を得て、寛政5年(1793年)10月12日の芭蕉百回忌に岡崎伝馬町の十王堂に芭蕉の句碑を建立。 |
碑繕完趣意 碑の石は東武時雨岡笠庵沙弥興山藩士岡田氏連歌をたしみて、物数寄奇異の叟也。由緒ありて石州高角なる人丸の神社近きわたりにありけるを遠しとせすしてもち来り、あした夕へに愛賞しつ、定なき音聞く夜半のしくれかなと閑清幽栖をおかしと佗しか、今としやゝ古稀になんなんたる年なみ、幸に翁の百回忌たるに及んて、もとより風流の雅石たれハとて供養せんとて爰の風子に送る。 膳所曲水子への真蹟は、翁門人俳名宇古藩士松下氏何某元禄の世に在して、俳諧別当と仇名呼れし英士也。後にその門人三四藩士原田氏何某ゆつりうけて伝来して秘置たり。文のおもむきハ左に写しつ見ゆ。はしめに神も旅寝のほ句半に及んて、岡崎の駅まて持参候て封を開くとあれハ、熱田を曳杖ありて道のわたり暮たらんほとにわひ寝しつ、夜坐ともしひのもとにて文見給ふ事、此駅此わたりの旅舎にうたかひなかるへし。依てその旅寝のむかしを想像して、其遺章の発句を碑の面にしるしあけて供養す。 碑下に祭れる品は、東都松露庵烏明叟か侍瓶たりし水雲居祖風、師に倍して関東関西に周遊す。近頃筑紫かたのかきり松浦の浦々まてめくれるそかなかに、みよしのゝ花見んとて伊賀の上野ハ祖翁の古蹟愛染院故郷塚と云を拝して、しはらくこの落月庵藩士堀氏に遊ふ。頃ハ天明八のとし戊申の弥生はしめ四日なりける。あるし老叟未墓大人、祖翁の居士衣の切を附属す。由来は翁門人風麦小川次郎兵衛娘友田角左衛門妻、尼となりて良品梢風とて門人たり。翁故郷の節は宿まいらせつ、春秋の衣を縫ひあるは晒洗して送る。世に俳諧袖てふも此尼より始れる也。翁滅後、其尼の家に有りて今落月庵梢風尼ハ外慈母也に残る。後の証としてその伝来を書添へて祖風に授く。幸に今月今日正当、此居士衣の切を埋収して永く風雅をいのるもの也。 |
行脚乞士之癖として、常々の御厚恩ハ胸 |
に有なから、御暇乞もさたかならず短き手紙一ツニ而埒明候も、悟リ中間の仕方のやうとうるさく覚申候へ共、且名残り残らんも一風流たるべきや。松茸御所柿ハ心のまゝに喰ちらし、今ハ念の残るものもなしと、暮秋廿八日より三十二日めニ、武江深川に至り候。盤子に被レ遣候御返翰ハ、熱田ハ人々取込候へは、封のまゝにて岡崎の駅まて持参候而、窓の破れより風吹入、戸の透間より月もりかゝれる、いを魚の油のなまく(さ)きよごれ行灯の前ニ而御文先開く。泪紙面にそゝり候。珍碩文ニ三とせの厚情不レ浅と書たる、誠三とせ心をとゝめ候ハこれたれか情そや。何とそ今来年江戸にあそひ候はゝ、又々貴境と心構候間、偏に膳所ハ旧里のことくニ被存申候。御堅固に御勤、竹助殿煩無二御座一様ニと奉レ存候。珍碩目保養、無二油断一様御心そへらるへく候。いまた取紛候故いつ方へも書状遣し不レ申候。其角に遭申、先御噂申出し候。
ばせを
霜月十三日 曲水様 |
遺 章 芭蕉翁 都出て神も旅寝の日数哉 当日追福遺文床上垂正式俳諧 脇 起 |
落葉せぬさと祭する今 | 李喬 |
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汐木焚く漁の海士等浦の家に | 柳波女 |
遺章に香を捻てむかしをおもひ |
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自他を弁ハ霜野に薫る |
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三秀亭 |
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けふの遠忌祭るも旅寝こゝろ哉 | 李喬 |
小簔来し猿も啼へき法会哉 | 柳波女 |
百とせの旅寢ハ遠く |
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今降雨は其世もかわらめや |
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旅にしくれて寝覚ハ爰かしるし塚 | 祖風 |
萩芒月か出れハ水の中 | 卓池 |
三州吉田 |
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雉子啼や山寺の門また明す | 木朶 |
勢南松阪 |
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はつ暦彼岸を母に問れけり | 滄波 |
浪華 |
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うくいすや干鰯のめくる谷の麦 | 二柳 |
皇都 |
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秋かせや海士ハ千尋のうきしつミ | 蘭更 |
同 |
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若竹に家かさなるや小野醍醐 | 蝶夢 |
湘中鴫立沢 |
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樵夫のミ濡て出しよ露しくれ | 西奴 |
東都 |
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稲ふねや早苗つみしもきのふけふ | 雨什 |
同 |
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鴈啼くやすみれ咲く野の枯尾花 | 烏明 |