俳 人

岩間乙二
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『はたけせり』 ・ 『箱館紀行』 ・ 『松窓乙二発句集』

乙二の句

白石の俳人岩間清雄。大呂。丈芝坊白居に師事。号は松窓。

乙二   白石亘町 
   千手院 


常世田長翠小野素郷吉川五明と共に奥羽四天王と称された。

江戸の三大家といわれた成美巣兆道彦と交わる。

 門出口號

成美は題目にひたとかたぶき巣兆ははやく酒に醉とかみち彦は向ふ島に隱居するともきこゆ

きくの秋しらかくらへにむさしまで


千手院第十代の修験で、権大僧都岩間清雄法印。

 松窓句集は一名をのゝえ草稿と曰ひ俳宗松窗乙二か句集にして一巻の中に七百首を収めたれば乙二全集とも謂ふべきものなり乙二姓は亘理名は清雄松窓と号す刈田郡白石修驗千手院の行者にして權大僧都に敍せられ俳諧を白居に學び出藍の譽あり


 宝暦5年(1755年)、千手院第九代清馨の長男として生まれる。父清馨(隣々舎麦蘿)に俳諧を学ぶ。

 明和8年(1771年)、也有古稀の賀。乙二の句の初見である。

撫松楼迂翁寿詞

古稀をもろこし人は逢ひがたきやうに申はべれど

千代の数貝まゐ(い)らせよ伊勢の蟹


 安永6年(1777年)、22歳の時に修験道本山聖護院へ赴く。

春や祝嵯峨にて向井平二良


 天明元年(1781年)、きよ女生まれる。(後、梅屋の妻。号溶々女)

 天明5年(1785年)、30歳で江戸に出て、夏目成美亭へ。2月、帰郷の途に。

 天明7年(1787年)7月19日、麦蘿没。

 寛政4年(1792年)、再び江戸に出て越年。成美の法林庵に50日余り滞在。

 みちおくの乙二ぬし、去年の冬、しら河の雪をふみて東都(えど)の春にあそぶ。すみつかぬ旅の心もしばしのどめてよと、わがかつしかの法林庵に草鞋の駕(かご)をとゞめてより、一日は野外に梅をさぐり、またの日は深川の雫を硯に汲て、十七字の風情に方寸をこらす。前後五十余日、たがひに雅膓を吐てのこすことなし。されば、「たがふことなき友といふも、なほ諂るにちかし」と。


 寛政10年(1798年)、乙二の家が火災に見舞われた。

   池魚の災にかゝりし時二句

仏達をものゝ落葉にのせ申

琵琶形に雪の降けり家の跡


 享和元年(1801年)5月、常世田長翠は奥羽行脚。乙二の許を訪れた。

乙二風士をとふのことは

十年あハされハ百年のうらミなりしもひと夜に十年の笑をなせハまた百年のよろこひならすや。兄若く我なをワかし。松柏いつれの老をかたるそ。

けふハあすのむかしとならん莎鶏(ぎす)の声

   其夜通題

山の端の空もほたるも夜かな
   乙二

戸谷双烏、戸谷朱外宛書簡

 享和元年(1801年)、布席は蝦夷地に渡る途中、乙二を訪ねる。

 享和2年(1802年)、長翠は小蓑庵を中村碓嶺に譲り、酒田に移住。道筋の途中で乙二を訪れた。

 享和3年(1803年)5月5日、酒田の常世田長翠を訪ね、象潟に遊ぶ。

   酒田にて

ふるさとを思はぬふりぞ粽とく


象潟


 同年、三度江戸に出て道彦の十時庵を訪ねる。越年。

十時菴に行事六たび、さるほどに雪としぐれと降かはりて

都鳥なるれば波の鴎かな

   江戸に年を迎て吾妻橋より眺望

万歳ものぼれはつくはの朝南


 文化元年(1804年)2月25日、小林一茶は乙二、道彦と巣兆婦人の見舞いに千住へ行く。

   廿五日 晴 北風吹

 巣兆ノ婦人例ならぬとて、乙二、道彦とおなじく千住におもぶく。かへるさ穏(隠)坊の家をよ所に見なして、

わか草や誰身の上の夕けぶり

わか草と見るもつらしや夕けぶり

『文化句帖』(文化元年2月)

 同年秋まで江戸に滞在。故郷に帰る。

こぞより江戸にありて花にきさらぎの十五日もつゝじに彌生の晦日も暮て

御ほとけのうまれし今朝や不盡の山


 文化元年(1804年)、『はたけせり』(乙二編)刊。巣兆序。

 文化2年(1805年)、江戸から帰り故郷で春を迎える。

   江戸より帰て草庵の立春

度寐せし春はむかしよ武蔵坊


 文化3年(1806年)4月22日、越後へ旅立つ。

   出羽と越後をさかふ太里塔下にて

来るも山しみづまたげば越の山


 文化5年(1808年)3月12日、小林一茶は夏目成美を通じて可来、野松、乙二に手紙を出している。

一書一通 羽州可来
一〃 〃 野松
一〃 白石乙二

   三月十二日随斎に出ス


 文化7年(1810年)6月22日、乙二は太呂を伴って白石を立ち、盛岡で平角に会う。

 同年8月20日、盛岡を立つ。9月5日、大間に到着。函館に行く船を待つ。9月13日、函館に着く。冬、高龍寺境内の斧の柄庵に入る。『箱館紀行』

   斧の柄と名づけて。僑居に移りし時。

折芝の猶細かれや爐のけぶり


 文化8年(1811年)3月2日、函館出航。10日、松前着。夏、函館に帰る。

 文化8年(1811年)5月、乙二は函館から素月尼に句を贈っている。

をのゝえの軒近き七面(ななも)の山の奇景も、明暮てあやめふくけふに成ければ、素月尼に贈る。

これ提て七面見に立て粽二把


 同年7月2日、乙二はクナシリから箱館に護送されたロシア人ゴロウニンを見ている。同日、太呂は白石に帰る。

かまきりの手あしよ髪は古蓬


 文化8年(1811年)9月13日、陸路松前に到る。10月末、函館に帰る。

 同年大晦日、乙二は函館で脚の病気に罹る。

慮外也なやらふ宵の足たゝず


 文化9年(1812年)3月、太呂は白石から函館に駆けつけた。

   はるより亜叟の例ならぬ臥床に侍りて

梭投るうちぞさほ姫たつたひめ
   太呂


 文化9年(1812年)、松前に移る。

病すこし心よければ、はこ館より松前へうつる留別

朝皃に立出る身はむくげかな


 文化9年(1812年)、『斧の柄』(乙二編)。平角序。布席跋。

 文化10年(1813年)5月、松前出航、鰺ヶ沢に着く。恐山に登る。8月、白石に着く。

 文化10年(1813年)8月14日、仙台のきよ女の嫁ぎ先松井元輔の家で常世田長翠が亡くなったことを知る。

病ながら松前よりかへりて、清が許にて仲秋無月

雨の月ふたり見る夜を月の雨


 文化10年(1813年)10月30日、きよの手紙で巣居が亡くなったことを知る。

巣居が身まかりしよし、きよがもととより文こしけるに驚きて

けふよりや仏をつくる雪と見る


 文化10年(1813年)冬、『わがほとけ』。松窓乙二跋。

 文化11年(1814年)7月13日、白石で盆会を営む。

他に三とせ寐(やみ)て五とせぶりにて古郷の盆会をいとなむ

我箸も苧殻にかぞへまぎれけり

 文化12年(1815年)6月、乙二は一具と須賀川のたよ女を訪ねる。

 文化14年(1817年)、赤湯で越年。

 文化14年(1817年)4月16日、乙二は慈恩寺宝蔵院住職淋山を訪ねる。

 文化14年(1817年)5月5日、乙二は酒田の浄徳寺に常世田長翠の墓参。

 文政元年(1818年)、再び象潟へ。8月15日、再び箱館に滞留。

 文政2年(1819年)春、幽嘯は乙二と函館に滞留。

 同年4月29日、恒丸の妻もと素月尼は函館に到着。

   六十に四つをそへたる良夜

命也月見る我をくふ蚊まで


 9月20日、素月は函館で客死。12月19日、乙二は素月尼の遺骨を携えて三厩に着いた。

文政6年(1823年)7月9日、68歳で没。

陣場山に墓碑がある。


文政6年(1823年)9月、『しをに集』(亀丸編)刊。自序。

長男は俳号十竹。娘のきよは松井元輔の妻。元輔は俳号梅屋。

『俳人住所録』(文政4年)には「きよめ 仙台 松井玄甫室」とある。

十竹の句

村雨に哀さますなからす瓜


きよの句

うす暮をめでたくしたり時鳥


まん月やつむりうへえお時雨鳧


男氣になりても梅のしづか也


さゝ小笹夜ハ清水の越るかも


菊もてば侘ぬ日はなし馬の面


山寺やひと吹風の花をまく


若竹の夕空はやせ啼くすゞめ


山水や秋はへるへる尾花さく


抱籠や市の月夜の身に添す


けむるなよ花の遠山見えずなる


朔日や翌日よりあすの梅の花


 門下に一具多代女がいる。白石片倉家第九代当主片倉村典は岩間乙二に師事。俳号鬼子。

 文政8年(1825年)秋、乙二の三回忌追善集『わすれす山』(きよ女編)。

 文政10年(1827年)、乙二の五回忌追善集『五とせ集』(太橘編)刊。

 天保6年(1835年)、『乙二七部集附録』(一具道人・布席編)。

 嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具は「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑を建立。



乙二の句が刻まれている。

はるの夜の爪あかりなり瑞巖寺

 明治26年(1893年)7月29日、正岡子規は瑞巖寺を訪れ、『はて知らずの記』に「門側俳句の碑林立すれども殆んど見るべきなし。唯 春の夜の爪あがりなり瑞岩寺 乙二 の一句は古今を圧して独り卓然たるを覚ゆ。」と書いている。

昭和33年(1958年)10月、白石城跡に乙二の句碑を建立。



粟まくやわすれすの山西にして

陣場山に句碑がある。


鶴などはとしよるものをはるの山

岩手県北上市の称名寺に岩間乙二と平野平角の句碑がある。



三日月はきのふの空やむら芒

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