俳 人

大伴大江丸
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姓は安井、のち大伴。号は芥室・旧国・旧州等。飛脚問屋を営む。

 享保7年(1722年)10月5日、大坂に生まれる。

 明和3年(1766年)3月、旧国は松島に遊び、蓼太の句「朝霧やあとより恋の千松嶋」に感銘したそうだ。

大島蓼太の句碑


朝きりや跡より恋の千松しま

 明和6年(1769年)5月29日、蝶羅は奥羽行脚から江戸に帰る。6月29日、鳴海に帰郷。

   尾の蝶羅奥に遊びて、松象の二景を瞳中にた
   もち帰らる。これが悦を述るに、彼勝地ハ一
   語一瞬の物ならねバ、后の樂に除をき羽黒六
   十里の幽谷におくれ鶯を聞んとて、残雪ニ辷
   りし噂など、知た同士こそ凉しけれ、と妹が
   りの歌にはあらで暫くの暑を忘る。時是五月
   廿九日なり
浪華
氷室にも一日早きはなしかな
 旧国


 明和8年(1771年)4月9日、諸九尼は千代倉家で大江丸と会っている。

此日難波の旧国のぬしも此家に来りて都の物がたりに、猶行さきのしるべをも聞えあはせて、覚束なき心もなぐさむ。


 安永2年(1773年)10月12日、旧国は義仲寺の時雨会に参列している。

 寛政12年(1800年)7月、大坂を出発して東海道を江戸に出て、陸奥・常陸を遊歴し、信濃を経て帰国。81歳の時である。『あがたの三月よつき』

 享和元年(1801年)2月、『俳諧袋』(大江丸編)刊。雪中菴蓼太・雪中庵完来序。

文化2年(1805年)3月18日、84歳で没。

『三韓人』には「文化二年三月十七日没」とある。

大江丸の句

竹の子やもふ一つ身の胸あはす


はせを忌やむかしを今にうつくまり


しくれ会やけふこそくもれ鏡山


嘘つかぬ里も過たり山さくら


芭蕉忌や長等の山もけふこそは


其中のひとつは落よ凧(いかのぼり)


此道や行けと時雨にかき曇り


芭蕉忌や蠅の障子をたゝくにも


元日や鴬もなかでしづか也


鹿の音のほそりて明ぬはつ時雨(※「雨」+「衆」)


香をかりて梅の林に入る夜かな


初午や戸に拍子とる盲児


さくさくと藁喰ふ馬や夜の雪


   夢にも人にあはぬと聞えしはむかしにて

乗掛の角刀(ママ)に逢ぬ宇津の山


露ごとに月やどる夜の光哉


芍薬やおくに蔵ある浄土寺


わか恋は松をしくれの十二日


我恋は松をしくれの十二日


名人の場もうちこして春の月


竹の子や身ハうツセミのからしあへ


おし鳥は一夜わかれて恋をしれ


はつ袷梅見しほとの寒(さ)かな


木々の芽にはや遠山の入日哉


遊ふにもものかた寄らす春の月


梅わかをうしろに船か着て候


八陳の桜出べき門戸なし


せめてもの雨弄ふ五月哉


梅をれといふ人うめの長者也


   自像画

春の花こんな親爺じ(ぢ)やなかつたに


彼岸の蚊釈迦のまねして喰れけり


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