其角の句碑

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草茎をつつむ葉もなき雲間哉

総泉寺大門のあたりをいふ。

『回国雑記』

      浅茅がはらといへる所にて

   人めさへかれて淋しき夕まぐれ浅茅がはらの霜を分けつゝ

道興准后

(同所にあり。(寛文の頃、吉原町にうねめといへる遊女はべりしが、故ありて夜にまぎれてこゝに来り、池中に身をなげてむなしくなりぬ。夜明けてのち、あたりの人こゝに来りけるに、かたはらの松に小袖をかけて、一首の歌をそへたり。

   名をそれとしらずともしれ猿沢のあとをかゞみが池にしづめば

かくありしにより采女なる事をしりければ、人あはれみて塚をきづけるといへり。)


台東区清川1丁目の出山寺に其角の句碑があるというので、行ってみた。


其角の句碑


句碑はほとんど読めないが、説明が書いてあった。

其角の句碑

台東区清川1丁目13番地13号 出山寺

  草茎をつつむ葉もなき雲間哉

 碑の正面に室井其角の句を刻む。

 其角の著『末若葉』によれば、これは元禄9年(1696年)正月、弟子を連れて当寺に遊んだときに詠んだ句であるという。

 碑は、この風流の故事を顕彰して、寛政5年(1793年)に建立された。

 其角は、寛文元年(1661年)の生まれ。榎本ともいった。医師竹下東順の子、14、5才のころ、芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたという。天和3年(1683年)蕉風の先駆とみなされる『虚栗』を編集し、芭蕉の新しい俳風の確立に活躍した。いわゆる蕉門十哲の第一人者とされたが、芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となった。宝永4年(1707年)没。

 なお、右側面に刻む「くさぐさの今にのこるや人の口 屠竜」は、姫路城主酒井忠以(ただもと)の弟であり、当時根岸に住んでいた画家酒井抱一の句である。

台東区教育委員会

 「草茎」は「鵙の草茎」で、鵙の早贄(はやにえ)のこと。鵙は捕らえた獲物を木の枝先などに突き刺しておく習性を持つ。

 元禄丙子のとしむ月末つかたに浅茅がはら出山寺にあそび侍り。畠中の梅のほづえに、六分斗なる蛙のからを見つけて、鵙の草莖なるべしと折とり侍る。

草茎をつつむ葉もなき雲間哉


出山寺に「采女塚」もあった。


采女塚

台東区清川1丁目13番地13号 出山寺

 石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。

 江戸時代の初期、寛文年間(1661〜1672)新吉原雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。采女は悲しんで浅茅ヶ原の鏡が池に身を投げた。時に17才。翌朝、草刈りの人たちが

   名をそれとしらずともしれさる沢のあとをかがみが池にしずめば

としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。

 浅茅ヶ原は、現在の橋場1、2丁目と清川1、2丁目のあたりを指し、『江戸名所図会』によると、鏡が池の面積は、文政(1818〜1829)の頃、約五百平方メートル、橋場一丁目の北部あたりにあったという。

 碑は、文化元年(1804年)大田南畝ら文人たちによって建立。第二次世界大戦で火をあびている。

台東区教育委員会

 文明18年(1486年)、道興准后は浅茅ヶ原で歌を詠んでいる。

あさちが原といへる所にて、

   人めさへかれてさひしき夕まくれ浅茅か原の霜を分けつゝ


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