田中千梅

『鹿島紀行』(千梅林亜靖)

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 享保元年(1718年)8月14日、千梅林亜靖が中秋の名月を賞すべく、文千・雪刀と共に鹿島に遊んだ時の紀行。

行徳にいたり塩浜を詠ム

   絵て見たる塩屋に来たり秋の暮

行徳より船をあかり一人はかりすくる水中に鳥井たついかなる神の宮ゐし給ふにか社はうへなる森にこそと覚束なし

   露きらきら白髪流の花表かな

なを行々て道の辺の小川に物洗女あり馬上遙に見渡す折しも月の為もうけぬらむとおほしく芋を炊キ洗なりけり

芋洗脛に落馬のはしめかな
   文千

此句面白し姿は翁の言葉をかり心は久米の仙人の通を失ひけむおかしみを工み又遍照僧正のわれおちにきといふ戯をうつせり女といふ字を隠したるに手柄ありほとなく船橋にいたり十四夜の月まつ見はやと此処にやとる

待宵を唐黍こしの入湯かな

蚊にくはれ次第や小望月
   文千

十五日夜を込てやとりを出ル

露なから声に色なし朝烏
   雪刀

霧の籬打はらいつゝ行は芭蕉翁の紀行に秦甸の一千里と詠わたされたるかまかいか原に出千那先生のみねのしらくもひきはへよと詠せられつる筑波山むかふに聳へ 前後左右そこはかとなく野艸花をおひて蜀錦をつらぬ女郎花きちかうりんとうおのれおのれか手柄をあらはし咲みたる今宵の月に供すへきと尾花槿手に手に折持中にも萩は万花に勝れて色こくみたれあいたり

野を押て雲に雫や萩の浪

女郎花側に野菊の了(カフロ)かな
   雪刀

ほとなく木下にいたる是より又船に乗て鹿島まては十余程くたり也 たつ崎 藤蔵納屋 十里 安才 滑川 源田 金井須なといふ邑々南北の岸にならひたつ是ヨリ銚子マテ川北ハ常陸南ハ下総ナリ 申の刻はかりに神崎といふ所まて下る深川を出しより思ふ甲斐あれと神へも申たりし神慮にかなひたるもしるく万里雲なし月はや出ぬ唯句のみ心の隈になりて夜船さし下す二千里の外故人の心と打詠行はまた筑波の峰ありありと隈なき月に曜

山は筑波水も名高し利根の月

梢にも船さし上せ月の松

旅船や小倉羽織も月の客
   文千

水の面照月に魚のおとり哉
   雪刀

十六日明離るゝや又舟にとり乗 鹿島山のいさよひ拝むとあはたゝしく朝飯船に炊調て潮来といふ所の沖につなき留釣漁のかへり船を押へ肴もとむるなと常なき様いと面白し日いとよく晴わたれるに川岸にさし寄て浄国寺に詣す崙山和尚の中興甍漁家の扉を輝す磯辺にならひたつ旅店には遊女ありといへは西上人の紀行を思ひ出江口橋本の俤もなつかしく尋もとむれとも朝ゐしたる時分なれはひとりも見えす白地の女子ともの風俗おのつからやさ(※「言」+「花」)しく見やらる

   摺臼引小屋の後や紅の花

船にうつりて芦間わけ行かうほね水葵浪にゆられてさゝやか也午の刻はかり鹿島につく磯辺に御鳥井たつ是ヨリ舟をあかり御殿まては十余丁直に社参す御社は乾の方にむきて立せ給ふ或抄に南向としるされたるいといふかし塩たにさせは御まへのはた板まては海になり侍と書れたるも大キにたかひ侍る今の御殿は中々海に遠く森々タル老樹梢埋むて立つゝき海にのそめは夜狐輪の月を見おろす神の御こゝろの高く宮ゐし給ふもとうとし 御造栄も幾年経にけむ玉垣楼門あふれ朽宮殿もさすかにめてたきよりいや増有かたさも身に入て覚ゆ神拝して

   目をふさくうちのたよりや玉真葛

      御手洗

   山かけや水にまつ来秋の昏

      要石

   見ると聞と神のちからに肌寒し

夕日紅葉を輝し木陰冷気なれは十六夜まち出むと磯辺の旅館に帰道の序おものいみの御社根本寺に詣神宮寺は此山の本地也 釋伽(ママ)薬師地蔵観音文殊おのおの法灯をてらし給ふ

   芙蓉咲薮はとうとし玉箒

宿に帰れは月はや御社の森の木すゑ遙にさし出ぬ

いさよひはまたこつからの鹿島哉

十六夜やまだ月代の露もひす
   文千

夜半よりけしきはかり時雨けれは

   いさよひやかねて合点の汐曇

月西山にうつり行まゝに名残を夢にたのみ置てふす

十七日とくより起出舟漕もとして香取の御神にまいらむといそく 旭鹿島山に輝残月河水に浮て風景句情に余加藤須なといふ島々押しわたり太神宮の社の下津の宮といふにつく川岸に船をつなきて社参す磯より十町余引入御殿は南向廻廊玉垣朱にかゝやき磨なをす御鏡又貴し 後は山岳岸を畳前は松杉行衛もなくつゝきて広海川目前につらなり 昼は帆船足下を通ひ夜は漁夫の灯こゝかしこにひかりて御灯おのつから也右に神宮寺有本地は十一面観世音なり

   神鈴や骨にしみ込はつあらし

是より銚子へ舟さして下舟路ほと経て日数つもりぬれは そこはか詠残しぬ小見川石出といふあたり日暮ぬ立待月のやすらひもなく水の面に浮み出て今宵を月の名残とわきめふらす唯天 都てまつ宵より四夜の月一夜も心にかゝる隈なく実月の名所もしるく此世に生ての月の見おきと思ひつゝくる事多詠尽しぬ

立待の今宵は腮に力かな

弦管の薮ちから也十七夜
   文千

漸亥刻はかり銚子に着しれる人々寄つとひ饗応す 暫船路の屈足を伸十八日川端氏饗応盲(メシイ)たる女来て鄙歌おかしく横すちかひにはりあけ諷ひのゝしり三味線とりはやし深更に及十九日寺院参詣磯めくりす遙に東海に望て遠くも来ぬるかなと詠わたされされとも未外と打吟しつゝ歩行す漁夫のいとなむ業閑(シツカ)におもへは後世のためいくはくおそろしき業障をもつめるかなとはかなし 世は境界二字につなかれ人は善悪のうへにあそふ唯何なる業をしても心によらめと観想して帰

廿日飯沼観音にて鞠有

廿一日湯屋庄右衛門といふ者にまねかれて鞠一座風たちて止ぬ

廿二日雨誹諧有亭主雪刀秋雨のつれつれを慰むと隣しらすといふ物してもてなしけるにおのおの好物ならす

   ほた餅の苦患もよしや秋の雨

と狂句して笑ひけり

廿五日銚子を出帆して中湊と志す人々浜辺まて出ておくる 雪刀川端夫婦此ほとの饗応のあまり今も切に別れをおしむ少の間も人にちなみては名残かなしく船かけも人影も見ゆるまては磯にたち舟はたにたつ折節北の山ヨリ時雨て雲霧深くたちかくしぬ

   吹わくる船の乱れや露時雨

風追手を吹てほとなく息栖の神前にいたりぬ宮路さひしく鹿島香取の両宮には又やうかはりて幽なる御前のけしき社頭花表唯水のうへに浮ミ 本社拝殿も外物なく左に神宮寺有扉落は月常住の灯をかゝくといへらむ風情也本地は薬師如来地并観音不動毘沙門天五体各々和光し給ひ息栖五処の太神宮と称し奉る也折しも後の松山にしくれて人のまいらぬ日神へもまいりたるよしと吉田の何かしか書たる思ひ合せて神さひとうとさ浅からす

   鴫鴎和光のかけをやとりかな

船にてひるげしたゝむるほと雨しきりにふりて苫といふ物をふく

   潮煮の鱸(すずき)に苫の雫かな

合羽菅笠とり囲へと苫洩雨ふせきかねこゝなりちゝみて半日をしのき風さへ心にまかせす夜ニ入戌刻はかりに漸大舟津にかゝる 雨しのをつくかとふりしきり宿かさむといふを幸に泊磯屋破れて風雨外のことし

   雪隠にこまるかりほや夜の雨

亭主心さし有者にていたはり恵けり

三日平磯一見かつきの海士蚫あさりて浪にわけ入リ海松和布(ミルメ)海鹿藻(ヒチキモ)乱れ髪にかゝりて浮ぬ沈ぬいとなみひまなきさま大かたに世はわたられぬとよめるおもひ合せてあわれ也姥か懐なといふ岩窟一事も見残さしと歩行す夕陽ちかくなれは村松の虚空蔵拝み残しぬ日本三虚空蔵の一体なりとかや都此あたりには小社多し魔王邪鬼のあれたるを神にいはひ悪蛇いそらのむつかしきをほこらに祭れる類も多かるへり惣して常陸には九山の権現八海の明神といふましますとかや各々垂迹和光の御神法性常住の惠光いちしるし其中に常陸七社といひ又或切に十一社ともいひ侍ル何れに貴仏神のたち給へるや千早振神のむかし此あたりは魔鬼群をなし中々人住へき国ならぬを諸々の神の御ちからにて今平なる国となし給へるにこそ神国の威光有かたく思ひつゝけて詠めくらしぬ

十日筑波登山小田北条なといふ所を過

日暮下山して御師何某か家にやとる名所の夕月夜畑も木部屋も面白ク坐(ソゝロ)寒きまて詠入山路のつかれにて発句も出す伏す

十一日土浦に帰夕暮ヨリ又時雨てつれつれなるに中山氏医家何某にまねかれて謡有

十二日終日雨あい屋吉兵衛といふ者饗応して座鋪鞠有

十三日今宵の月は深川の旧窓に籠リ此度の紀行を思ひ出 余流懐旧の句を吐はやとかねてはおもひおきしにはからさるに又旅館に月を詠

   七毛の馴染ねこだや後の月

江戸より文通に

此方にもくさめいくつか後の月
   如泡

十四日土浦を出て帰府に趣旅の名残おしまれ長国の大澄寺にもうす常陸四寺の一箇也

中村牛久といふ里を過

   しほらしき娘も出よ枸杞の花

小通の渡は牛久沼ヨリ流れて利根に落ル 手賀沼を弓手に見宮和田藤代を過て取出(ママ)にやとる長途につかれて宵ヨリ伏す

十五日深川に帰

   二国の露に肥たるこふらかな

追加

まつ問や笠も脱せす二度の月
   千弐

于時享保元丙申暮秋天
   千梅林亜靖述

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